国鉄〜JR 事故廃車一覧
2ちゃんねるにうp用に簡単に作った一覧表。不謹慎なのは分かってるので本気にして取り扱わないように。原則、新性能電車と昭和32年以降に製造された車両のみ。
斜体は修理扱いの代替え新造、下線付きは事故後保留中の車両。私鉄はこちら

最近の事故。廃車になっても不思議でないもののみ掲載。(更新遅)

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気動車(形式名2桁-形式名3桁)-客車-貨車-電気機関車-ディーゼル機関車

凡例 車両番号
事故発生日時
事故発生場所
死傷者
事故の概要、車両について、画像など





電車


1 クモハ101-11、クモハ101-28、クモハ101-29、クモハ101-50、クモハ101-83、クモハ101-84、クモハ101-86、クモハ101-88、クモハ101-100、クモハ101-103、クモハ100-11、クモハ100-27、クモハ100-28、クモハ100-29、クモハ100-83、クモハ100-87、クモハ100-88、クモハ100-91、クモハ100-100、クモハ100-151、モハ101-14、モハ101-21、モハ101-27、モハ101-28、モハ101-29、モハ101-81、モハ101-83、モハ101-84、モハ101-87、モハ101-180、モハ100-14、モハ100-20、モハ100-21、モハ100-28、モハ100-29、モハ100-48、モハ100-80、モハ100-81、モハ100-82、モハ100-84、サハ101-41、サハ101-42、サハ101-45、サハ101-54、サハ101-60、サハ101-64、サハ101-67、サハ101-75、サハ101-78、サハ100-41、サハ100-42、サハ100-45、サハ100-54、サハ100-60、サハ100-64、サハ100-72、サハ100-75、サハ100-76、サハ100-78、サハ100-79
1982年(昭和57年)8月2日(
国(西) 関西本線 王寺駅構内 (地図)
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 台風10号の影響で集中豪雨により大和川の支流である葛下川が氾濫し、王寺駅の留置線が水没。留置されていた101系60両・113系40両の計100両が床上浸水し使用不能になった。特に101系は床材のコルク材が水を吸ったため被害が大きかった。113系全車と101系6両は修理し運転に復帰したが、101系54両は初期車ということもあり、関東で201系投入により余剰となっていた101系を転属させて置き換え。
新聞記事
2 クハ101-60
1969年(昭和44年)10月30日(木) 11時12分頃
国(東) 総武本線 津田沼〜船橋 海老川鉄橋上
運転士と乗客2人が重傷、乗客7人が軽傷。
 三鷹発津田沼行き下り列車として8両編成で運用中、海老名鉄橋付近で大型ショベルカーを搭載した大型トレーラーと衝突。約200メートル引きずって先頭車のクハ101-60が脱線。クハ101-60は先頭部が陥没する大きな損傷を受けた。ショベルカーは総武本線の複々線化工事のためのもので、工事関係者のずさんな管理体制が問題となった。
 クハ101-60は昭和40年9月4日に日本車両で新造。昭和44年12月25日に廃車、新製4年で廃車と短命だった。
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3 クモハ100-8、モハ101-8
1968年(昭和43年)7月16日(火) 22時38分
国(東) 中央本線 御茶ノ水駅構内 (地図)
負傷者210人
 御茶ノ水駅電車追突事故の被災車。先行の豊田行き10両編成の2239F(最後尾がクモハ100-8)が、停電時にATS-Bが異常動作して発車直後にホーム半ばで緊急停止していた。そこに後続の高尾行き10両編成の2201F列車(先頭車がクハ101-88)が追突した。双方ともに5両づつが脱線し、衝突面の先頭車は前面パーツが全て圧壊し、車内の座席も散乱するほどの衝撃だった。後続列車の運転士の制限速度オーバーと、急勾配と急カーブによる見通し不良によりブレーキ扱いが遅れたのが原因。
 クモハ100-8はモハ90526、モハ101-8はモハ90025として製造された車両。裁判の証拠物件となったため廃車日は5年後の昭和48年11月21日。
4 クモハ101-185、モハ100-238
1989年(平成元年)6月18日() 0時10分頃
南武線 武蔵中原〜武蔵小杉 小杉御殿町踏切 (地図)
乗客4名が軽傷。 自動車の運転手が重傷、同乗者1名が軽傷。
 立川発川崎行き上り最終電車として6両編成で運用中、踏切の遮断機をくぐり無謀横断しようとした大学生が運転する自動車に時速約70キロメートルで衝突。自動車に乗り上げ巻き込みながら約130メートル暴走し、住宅街の10メートル手前の駐車場まで突っ込み、駐車場の自動車13台を押しつぶした。
 事故車は冷房改造車。翌19日に車籍抹消され、数日以内に現地解体された。
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5 クハ100-91
1988年(昭和63年)10月18日(火) 14時15分頃
南武線 南多摩駅付近 大丸踏切 (地図)
乗客8名とダンプカーの運転手が軽傷。
 川崎発立川行き下り電車として6両編成で運用中、踏切で無謀横断しようとし立ち往生していたダンプカーと衝突。先頭車が脱線した。踏切は第1種踏切。ダンプカーの運転手は業務上過失傷害、過失往来危険の疑いで逮捕された。
 事故車は冷房改造車。事故後中原電車区でしばらく留置されたのち翌平成元年6月6日に廃車。
6 モハ101-201
1965年(昭和40年)7月31日() 15時8分頃
国(東) 山手線 品川駅構内 (地図)
内回り電車の乗客30人が負傷。
 新宿発品川行の内回り電車として運用を終えて大崎方の引き上げ線へ回送中の電車が、後続の内回り列車の右側面に衝突した。ポイント上を通過中のモハ101-201の右側側面が内回り列車の前2両にえぐられて大破した。内回り列車がATSの電源を入れず、赤信号も無視したことが原因。ポイント上で脱線したため山手線は9時間ストップした。
 モハ101-201は昭和38年2月1日付で汽車製造で新造され、品川に配置された車両。事故の後車体を代替新造して森ノ宮、淀川へと転属をしながら昭和59年6月1日に廃車になるまで運用された。
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7 クモハ103-94、モハ102-215、サハ103-115、クハ103-580
2002年(平成14年)8月19日(月) 18時50分頃
仙石線 鹿妻〜矢本 笠松踏切 (地図)
乗客3人が負傷。自動車の運転手は死亡。
 あおば通発石巻行きの快速列車3821Sとして乗客約270人を乗せて4両編成で運用中、遮断機・警音器が鳴っているにも関わらずに踏切へ侵入した自動車と衝突。先頭車のクモハ103-94の前台車の前1軸が左側に脱線した。この事故の直後から205系の転入が開始されたため、4両(RM94編成)は修理されずに、平成15年2月12日付けで廃車となった。
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8 クハ103-23、モハ103-307、モハ102-463
2007年(平成19年)7月12日(木) 8時14分頃
西 阪和線 東佐野〜和泉橋本 新家陸橋 (地図)
乗客1名と運転士が軽傷。作業車の2名も軽傷。
 熊取発天王寺行き各駅停車442Hとして4両編成で運用中、時速約60キロメートルで新家陸橋を通過する際に下から突き上げるような衝撃とともに1両目が脱線した。また線路上にあったバラスト止めを床下に巻き込んだため、床下機器を大きく損傷し1両目には客室床に達する亀裂が入った。原因は、高さ2.8メートルの作業用バケット車が高さ2.4メートル制限の陸橋下を通過しようとして接触したため。高さ制限ポールに荷台のアームが接触して車の前輪が持ち上がり、運転席キャブが陸橋を下から突き上げるように衝突して建築限界を支障した。
前より3両は修理されずに同年8月10日付けで廃車。
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9 クハ103-277、モハ103-334、モハ102-490、サハ103-326、モハ103-21、モハ102-21、サハ103-327、モハ103-336、モハ102-492
1988年(昭和63年)12月5日(木) 9時37分頃
中央緩行線 東中野駅構内 (地図)
後続列車の運転士と乗客1人が死亡、両列車の乗客116名が負傷
 東中野駅列車追突事故の被災車。津田沼発中野行の10両編成の各駅停車805Cとして運用、東中野駅に停車中に、千葉発中野行の10両編成の各駅停車835B(クハ200-4以下201系10両のミツ6編成)に追突された。原因は、当時慢性化していた遅延への対処として、ATS-Bの停止信号警報を確認扱いにすることで、一旦停止せず走行する「追い上げ運転」を行っていたこと。現場は見通しが悪かったため、非常ブレーキが間に合わず衝突した。昭和39年・昭和55年にも同じ場所で同じ追い上げ運転による追突事故が発生している。
103系はラシ336編成。中間8両が平成元年3月23日付、クハ103-277が平成元年7月25日付で廃車。中野寄先頭のクハ103-278は営業運転に復活し、平成7年まで活躍した。
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10 クハ103-548、モハ102-169
1971年(昭和46年)5月20日(木) 21時30分頃
国(東) 根岸線 新杉田〜洋光台 洋光台駅の東約500メートル (地図)
運転士が重傷、乗客2人が軽傷
 大宮発洋光台行きとして10両編成で運用中、住宅公団造成の初歩的ミスにより発生した土砂崩れに突っ込み前3両が進行方向右側に脱線した。先頭車がくの字型に凹み、線路の両側が泥沼で搬出困難でもあったため前2両が廃車となった。
 クハ103-548は昭和41年5月20日付けで東急車輛で、モハ102-169は昭和41年6月13日付で日本車両で新造。両車とも昭和46年3月27日付けと製造5年で廃車。モハ102-169のペアのモハ103-105はしばらく休車になり、代替で新造されたモハ102-445とクハ103-188と編成を組んで常磐線へ転属。モハユニットは製造時期が異なることから、103系で唯一ユニット窓・非ユニット窓が混結するユニットとなった。
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11 クハ103-819、サハ103-493、モハ103-740
1989年(平成元年)10月
習志野電車区内
不明
 出庫しようとしたラシ307編成の7両目のサハ103-493、8両目のモハ103-896の側面に、豊田所属の東中野事故の応援編成の10両編成の先頭車のクハ103-819が衝突し、クハ103-819が横転した。
 クハ103-819は昭和55年5月8日付で日本車両、サハ103-493とモハ103-740は昭和54年11月6日付で川崎重工で新造された。サハ103-493は平成5年2月1日、クハ103-819とモハ103-740は平成5年4月2日に廃車され実働9〜10年だった。モハ103-740のユニット相手である9両目のモハ102-896は損傷は無かったが、相方を失いその後復帰せず平成6年7月5日に廃車された。
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12 クハ103-839
1994年(平成6年)8月3日(水) 13時頃
西 JR宝塚線(福知山線) 三田〜新三田 川除中踏切 (地図)
先頭車両の乗客1名が投げ出されて死亡、1名が軽傷。トラックの運転手も死亡。この2名の乗客は老夫婦で、亡くなったのは妻。
 新三田発大阪行の6両編成の普通列車として運用、時速約68キロで走行中に、踏切で立ち往生していた廃油回収の2トントラックを発見。非常ブレーキを手配したが間に合わず衝突。約120m引きずって前2両が脱線、先頭車は全台車が外れて進行方向左の線路際の田んぼに転落した。先頭車が接触したため2両目(モハ103-781)の妻面が大きく変形。トラックも1両目と2両目の間で押しつぶされて大破した。当時の川除中踏切は通行規制の無い、幅2.1メートル、遮断機なしで警報機のみの第3種踏切だった。事故区間の三田-新三田は昭和61年10月複線化、同年11月電化され民営化後はベットタウン化とともに乗客が事故前3年間に約30%増加、運転本数も増加しており、列車本数の増加に対して安全投資が追いついていない状況だった。この踏切では民営化後だけでも3件の死亡事故が発生しており、三田市とJR西日本の間で立体交差化が協議されていた。事故後、川除中踏切は遮断機が設置され第1種踏切になり、現在では道路が線路の下を潜る立体交差化がされ、踏切は廃止されている。トラックの運転手は被疑者死亡のまま業務上過失致死などの疑いで書類送検された。
 クハ103-839は昭和56年3月17日付けで日本車両で新造。平成6年8月10日付けと新造13年で廃車。モハ103-781の妻面には事故復旧後も跡が多少残っていたが、後に体質改善N40工事を施行した際に完全に無くなった。
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13 クハ103-2051
1989年(平成元年)8月27日() 14時18分頃
西 阪和線 天王寺駅構内 (地図)
乗客28名が負傷
 和歌山発天王寺行き6両編成の快速列車として乗客約380名を乗せて運用中、櫛形ホームの天王寺駅阪和線ホームの4番線に突っ込み鋼鉄製油圧緩衝式車止めに衝突し、突き当たりのコンクリート擁壁の手前で停止した。脱線はしなかったが、2両目が先頭車両に乗り上がる形になり、連結器が破損、台車が外れかけた。原因は応荷重装置が故障したため。運転士は「時速20キロまでブレーキをかけたが、それ以上は速度が落ちず非常ブレーキを使用しても止まりきれなかった」と証言している。車掌も運転士とほぼ同時に非常ブレーキを手配していた。事故時の運転士は鳳駅で乗務を交代しており、その際に「ブレーキが効きにくい」ことを引き継いでいた。鋼鉄製油圧緩衝式車止めは昭和57年1月29日に天王寺駅で同様の事故が発生した後に設置されていたもの。
 クハ103-2051はクハ101-78からの改造車。事故後日根野電車区で前面ガラスの交換など一部修理されたが、平成3年までに非冷房の103系を全廃する計画になったため修理を中断、運用に復帰することなく平成3年9月30日付けで廃車となった。
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14 クハ105-7
1989年(平成元年)11月7日(月) 20時35分頃
西 桜井線 天理〜長柄 田村踏切 (地図)
乗客3名が火傷で入院、他の乗客15名と運転士・車掌が打撲などで軽傷。ダンプカーの運転手は死亡。
 王寺発奈良行きの普通列車として乗客20名を乗せて2両編成で運用、踏切を通過中に2両目のクハ105-7の右側面にアスファルトを積んだ大型ダンプカーが衝突。2両とも脱線し、クハ105-7は大きく傾きながら側板をえぐり取られるような形で損傷し、屋根を支えきれないほど大破した。更にダンプカーの高温のアスファルトが車内に降りそそいだため、乗客が火傷した。車体にも相当量が付着した。原因はおそらくダンプカー運転手の居眠り運転。踏切は第1種踏切で、警報機・遮断機ともに正常に動作していた。
 クハ105-7はクハ103-1032からの改造車。平成2年3月1日付けで廃車。運転台部分は無事だったためモハ102-385を電装解除してパーツを流用し先頭車化、クハ104-551として復帰。
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15 クハ111-55
1973年(昭和48年)12月26日(水) 8時12分頃
国(西) 関西本線 平野駅構内 (地図)
3人が死亡、149名が重軽傷
 関西線列車脱線転覆事故の被災車。湊町(現:JR難波)発奈良行き6両編成の普通列車722Kとして運用中、平野駅の時速35キロメートル制限の分岐器に時速70キロメートル以上で進入。非常ブレーキを使用したが間に合わず全車両全軸が脱線し1両目が横転した。当時関西本線で113系は快速に使われることが多かったため、運転士が平野駅を通過だと勘違いしたのが原因だが、意識が朦朧としたまま運転したり注意信号を見落としたことも問題になった。この事故をきっかけに変周式ATS-Pの試験が開始された(しかし普及せず)。関西本線では113系は快速限定運用になった。(JR化後には221系による普通列車も存在する。)
 クハ111-55は昭和39年8月11日付けで日本車両で新造。昭和49年6月1日付けで新造10年で廃車。
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16 クハ111-304
1975年(昭和50年)2月5日(水) 14時49分頃
国(海) 東海道本線 興津〜清水 鈴木島踏切
運転士と乗客1人が重傷、乗客21人が負傷
 沼津発浜松行き8両編成の快速列車459Mとして乗客約450人を載せて運用中、第1種踏切内で立ち往生していたトレーラーに衝突、1両目が脱線した。運転士は右足骨折の重傷を負ったものの立ち上がり発炎筒の紐を引いたことで、時速約90キロメートルで接近していた対向快速列車が約400メートル手前で非常制動、約27メートル手前で停止でき、2次災害を防ぐことができた。トレーラーは道路が混雑しているにも関わらず無理に踏切に進入、車体の後部約2メートルが踏切内に残った状態だった。トレーラー運転手は発煙筒を探すために降りていて無事だったが、過失往来危険、業務上過失傷害の疑いで逮捕された。
 クハ111-304は昭和37年6月21日付けで日本車両で新造。昭和50年8月18日付けと新造13年で廃車。
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17 クハ111-418、モハ112-60、モハ113-60
1968年(昭和43年)2月15日(木) 12時55分頃
国(西) 東海道本線 米原駅構内 (地図)
乗客1人が重傷、5人が軽傷
 米原発播州赤穂行きの下り普通列車759Mとして乗客約80人を載せて8両編成で運用中、出発直後の米原駅西端部分の貨物線と本線が合流する132番ポイント付近で、新潟発吹田操車場行きの50両編成の貨物列車566レに追突した。普通列車の前3両が脱線傾斜し先頭車が約5メートル下の田んぼに転落、貨物列車の貨車9両も脱線した。原因は普通列車ATSの電源未投入。この事故をきっかけに電源未投入防止装置(ATS電源未投入時に3ノッチ以上を入れると警報ベルが鳴る)が整備された。
 クハ111-418は昭和41年2月26日付で川崎重工で、モハユニットは昭和40年2月9日付で近畿車輛で新造。モハユニットは昭和43年3月28日、クハは昭和43年5月10日に廃車され2〜3年の短命となった。
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18 クハ111-541
1979年(昭和54年)6月16日() 10時35分頃
国(東) 東海道本線 小田原駅付近 (地図)
運転士が重傷、乗務員1人が負傷
 回送列車849Mとして小田原駅構内で入換中、車止めに激突し3両が脱線、内2両が転覆し本線も支障する。停止位置目標を見落としたことでブレーキが遅れたのが原因。
  クハ111-541は昭和51年6月8日付けで東急車輛で新造。昭和54年9月15日付と新造から3年3ヶ月で廃車となった。
19 クハ111-549
1997年(平成9年)8月12日(火) 23時18分頃
東海道本線 沼津〜片浜 栄昌寺踏切 (地図)
43人が負傷
 片浜列車追突事故の被災車。先行の泉発百済行きのコンテナ貨物列車67レ(EF65-1139+コンテナ車17両、最後尾コキ104-1675)が踏切の非常停止ボタン扱いを受けて停車していた。そこに後続で無閉塞運転の三島発静岡行きの4両編成の普通列車839Mがブレーキが間に合わずに追突した。先頭のクハ111-549は「く」の字形に折れ曲がり車体と台枠が分離するなど大破した。原因は後続列車の運転士が中継信号を進行と誤認して、規定の時速15キロメートルを大きく超えた時速76キロメートルまで加速したこと。この事故を受けてJR北海道・東日本・四国は無閉塞運転を廃止、閉塞指示運転に切り替えた。一方でJR東海・西日本・九州はわずかな対策であったため、平成14年に鹿児島本線で同様の事故が発生した。
 クハ111-549は同年9月28日付けで廃車。
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20 クハ111-814、モハ113-807、モハ112-807
1990年?91年?
西 宮原操車場内 (地図)
不明
 操車場内での脱線事故。詳細不明。
 福知山線用K7編成で、クハ111-814はクハ111-467から、モハ807ユニットはモハ54ユニットからの改造車。平成2年にWAU102の簡易冷房改造が施されたが、使用されることはなかった。平成3年9月11日付けで廃車。
21 クハ111-1038
1992年(平成4年)9月14日(月) 16時5分頃
成田線 久住〜滑河 大菅踏切 (地図)
運転士が死亡、乗客90名が負傷
 大菅踏切事故の被災車。大型ダンプカーが積載規定量8750Kgの4倍もの土砂を過積載していたため、ブレーキが弱り踏切で止まりきれず、列車の進行方向右側から少しづつ踏切に進入。そこへ千葉発佐原行き4両編成の普通列車1457Mが衝突。運転士は事故直後生存していたが、運転室が圧壊したために救出は困難を極め、救急車で搬送中に殉職。運転士は衝突を覚悟してパンタグラフを下げるなど安全処置を行っていた。その後の道路交通法改正により過積載に対する厳罰化が行われた。JR東日本でも「鉄仮面」と言われる運転席補強工事や209系以降の電車でクラッシャブルゾーンを設けるきっかけになった。過積載トラックの運転手や荷主会社には、クハ廃車の損害3408万円、残り3両の修繕費3770万円、線路等設備修繕費1712万円、事故処理関連人件費1658万円、運転士葬儀費用約150万円、乗車券払戻23万円、バス代行輸送費274万円、諸経費352万円の総額1億1347万円の損害賠償が請求された。
 クハ111-1038は平成5年11月1日付けで廃車。
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22 クハ111-1307
1984年(昭和59年)3月30日(金) 10時32分頃
国(東) 外房線 茂原〜八積 細代踏切 (地図)
運転士が死亡、50人が負傷
 安房鴨川発千葉行き6両編成の普通列車246Mとして運用中、遮断機の無い踏切で無理に横断しようとしたコンクリートミキサ車と衝突。前面が上側から押しつぶされる形で運転室が圧壊し、運転士が殉職した。
 クハ111-1307は昭和60年12月26日付けで廃車。
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23 クハ111-1308、モハ112-1027
1982年(昭和57年)6月27日() 5時18分頃
国(東) 外房線 太東〜東浪見 (地図)
乗客3人が負傷
 勝浦発千葉行きの6両編成の普通列車224Mとして運行中、突然土砂が崩れクハ111-1308とモハ112-1027が脱線した。
 クハ111-1308は昭和58年12月10日付、モハ112-1027は昭和59年9月17日付で廃車。モハ112-1027のペアのモハ113-1027はクハ111-1201として復旧。
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24 クハ111-1367、モハ112-1124、モハ113-1124、クハ111-1058
2009年(平成21年)8月31日(月) 19時頃
外房線 安房天津〜安房鴨川
不明
 安房鴨川発勝浦行き4両編成の普通列車3226Mとして運用中、踏切でトラックとの衝突事故に遭遇し、クハ111-1367の先頭部が破損。
 マリ212編成。廃車が進んでいたため修理せず貫通扉をアクリル板でちょっと塞いだだけで編成ごとEF64に牽引され、平成21年11月2日に長野車両センターへ廃車回送。この際、クハ111-1367には連結出来ないため編成を方転。
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25 クハ111-2045、モハ112-2112、モハ113-2112、モハ112-2111、モハ113-2111、クハ111-229
2006年(平成18年)4月6日(木) 10時頃
幕張車両センター内 (地図)
無し
 洗浄機を通った後、信号を見落として非開通のポイントに進入しポイントを割り出す。慌てて後退したため泣き別れ状態になりクハ111-2045が脱線傾斜。隣に留置されていたクハ111-1453に接触した。
 該当のマリ52編成は113系の置き換えが進んでいたことから、修理せず同年10月21日付けで編成ごと廃車。
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26 クハ111-5259、モハ113-5338、モハ112-5338、クハ111-5567
2002年(平成14年)6月2日() 7時14分頃
西 きのくに線(紀勢本線) 冷水浦駅構内 (地図)
乗客22人が軽傷
 同日7時0分頃に線路をまたぐ国道42号線上で、丸太を過積載したトレーラーが横転する事故が発生。丸太が線路にに多数落下し通信線などを切断した。連絡が出来ないまま約14分後に、乗員2人乗客約500人が乗った御坊発和歌山行き4両編成の快速列車3330Mが時速約80キロメートルで突っ込み先頭車が脱線。車体や床下機器が大きく損傷した。
 クハ111-5259はトラックによる陸送、他3両はクモヤに挟まれて吹田工場へ回送。クハ111-5259は同年12月、他3両は同年9月に廃車。
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27 クモハ112-801
1991年(平成3年)6月25日(火) 8時18分頃
西 福知山線 丹波竹田〜福知山 岡踏切 (地図)
乗客4人が重傷、337人が負傷
 大阪発城崎(現:城崎温泉)行きの普通列車として3両編成で運用中、踏切で立ち往生していたショベルカーを積載した大型トレーラーと衝突。先頭車両が前面が陥没するほど大破し、盛土上の線路から右側へ転落した。通勤ラッシュ時の事故で、車内は約400人の乗客で満員だったため高校生を中心に、多数の乗客が負傷した。原因はトレーラーの運転手が高さ制限を無視して踏切に進入し、立ち往生したため。積載していた高さ4.6メートルのショベルカーのアームが、高さ制限のフレームに接触したため、トレーラーの運転手が後続の車にバックしてもらうため車から降りている間に事故が発生した。トレーラーは高さと重量(総重量約31トン)が車両制限令の規定を超えていたが、届け出をしていなかった。運転手は過失往来危険の現行犯で逮捕された。踏切は警報機・遮断機設置の第1種踏切だったが障害物検知装置は無く、カーブの先だったため、トレーラーの運転手が手を振っていた約190メートル手前で非常ブレーキを手配したが間に合わなかった。JR西日本はトレーラー運転手と、運転手の雇用主・トレーラーの所有者の福知山市内の建設業者に6,000万円の損害賠償を請求した。更にトレーラー運転手には業務上過失傷害、道交法違反などで禁固2年6ヶ月、執行猶予4年の判決が言い渡された。JR西日本は事故を受け、約77億円掛けて管内全域の自動車通行可能な踏切6,361箇所のうち、約64%にあたる4,078箇所に障害物検知装置か非常ボタンの設置を行った。
 ユニット相手のモハ113-818はサハ111-5801に改造。唯一のグロベン搭載のサハになる。
画像 画像(衝撃画像注意)
28 クハ115-35
1994年(平成6年)3月24日(木) 11時45分頃
西 赤穂線 西大寺〜大多羅 出店踏切 (地図)
乗客7名が負傷、トラック運転手は死亡
 姫路発岡山行き4両編成の普通列車として乗客約180人を乗せて運用中、警報機・遮断機共に無い踏切で4トンダンプカーと衝突。衝突したダンプカーがバウンドし、1両目と2両目の右側の連結部に直撃、列車の車体に穴が開くほど大破した。2両目のモハ114-3506のほうが破損が酷かったが修理し、非冷房で廃車対象だったクハはそのまま廃車。
 クハ111-35は平成6年7月4日付けで廃車。大破したモハ114-3506は平成4年にモハ116-29から編入された車両。N30延命工事を受けて平成29年現在も現役。
29 クハ115-113、モハ115-34
1987年(昭和62年)2月12日(木) 10時55分頃
国(東) 両毛線 栃木〜思川 第2高屋踏切 (地図)
4,5人の重傷者を含む35人が負傷
 高崎発小山行き4両編成の普通列車として約100人が乗車して運用中、踏切内で立ち往生していた大型トレーラーに衝突。前3両が脱線し先頭車が線路と直角になるように左側の畑へ転覆。
 モハ114-34は特別保全工事施工車だったため、新前橋電車区へ211系投入によって廃車予定だったモハ115-41と組み直した。
 脱線した2両は昭和62年3月13日付けで廃車。
30 クハ115-375
2002年(平成14年)9月末〜10月初旬頃
不明
-
 台風21号による強風で飛んできた木片が衝突し、前面を損傷した。
 修理する予定だったが、廃車予定だったクハ115-1131に差し替えたため、修理せずに平成14年11月2日付けで小山電車区で廃車。クハ115-1131も小山所属。
31 クハ115-406、モハ114-359
2015年(平成27年)2月13日 8時24分頃
西 山陽本線 西阿智〜新倉敷 八人山踏切
乗客1人が重傷、乗客43人と運転士が軽傷。
 播州赤穂発福山行きの下り普通列車1731Mとして約300人を乗せて6両編成(岡山所属のD24編成+D04編成)で運用中、約350メートル手前で踏切の異常発光灯が点灯しているのに気づき、時速90キロメートルから非常ブレーキを手配したが、踏切で立ち往生していた大型トラックに間に合わず衝突、約200メートル行き過ぎて停止した。トラックは大破して、コンテナが外れて2両目のモハ114-359に直撃した。列車は脱線はしなかったが、車体の右側面に大きな穴が開き、座席が外れ窓ガラスが散乱するなどの被害を受けた。乗客1人が頭がい骨骨折の重傷を負い、ドクターヘリで搬送された(後に回復)。トラックの運転手は過失往来危険の現行犯で逮捕された。運転手は、エンジンがかかっているのにギアが入らずトラックが動かなくなり、降りて踏切の非常停止ボタンを押したが、間に合わなかったと証言している。トラックは平成24年5月製造の「ふそうスーパーグレード」のオートマチック車で、三菱自動車への部品運搬車。平成26年の年末に修理に出されていた。修理を請け負った岡山三菱ふそう自動車にも過失往来危険の容疑がかけられ、同年2月17日に家宅捜索が行われた。ふそうスーパーグレードは変速機の不具合で過去に6度のリコールが行われている。
 3両編成のうち2両が廃車となり、残ったクモハ115-323はA13編成のモハ114-316、クハ115-326と編新D24編成を組んだ。A13編成のクハ115-325、モハ115-316は余剰廃車。
画像(衝撃画像注意) 画像(衝撃画像注意)
32 クモハ119-5324、クハ118-5316
2004年(平成16年)10月20日(水) 22時51分頃
飯田線 羽場〜伊那新町 (地図)
乗客3名と運転士が軽傷
 飯田線列車脱線転覆事故の被災車。飯田発辰野行の2両編成の普通ワンマン列車1433Mとして乗客3人を乗せて走行中、台風23号による大雨の影響で約15mに渡り盛土が崩れたところに時速約70キロメートルで進入、約50m先の田んぼへ脱線転覆した。盛土が崩れた部分では排水口が詰まった状態で、列車の振動と併せて徐々に崩壊したと考えられる。台風23号は平成になって最大の被害をもたらした台風で、同年11月26日に激甚災害に指定することが閣議決定された。JR東海は水門の管理者である辰野町と中井筋水利管理組合に対し、約6290万円(後に保険金約3000万円が降りたため、約3500万円に減額)損害賠償を請求した。伊那簡裁の和解調停の勧告により、辰野町が300万円支払うことで和解。
 事故編成は平成18年3月28日付けで廃車。
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33 クモハE127-3、クハE126-3
2008年(平成20年)9月10日(水) 9時33分頃
越後線 巻〜越後曽根 西川踏切 (地図)
乗用車の運転手が死亡
 吉田発新潟行きの6両編成の普通列車135Mとして運用、時速約60キロで走行中、踏切に侵入した乗用車に衝突。自動車を巻き込んだまますぐ近くの橋梁で停止したが、6両目のクモハE127-3の左側中扉付近で自動車が炎上して車両にも延焼した。
 事故後クモハE127-3ととクハE126-3のV3編成は長らく第二種休車となり、平成26年10月20日付で廃車となった。
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34 クロ151-7
1964年(昭和39年)4月24日(金) 10時7分頃
国(海) 東海道本線 草薙〜静岡 (東静岡駅は未開業) 池田踏切
在日イラク代理大使など著名人を含む10人が重軽傷。ダンプカーの運転手が死亡。
 第一富士脱線事故の被災車。東京発宇野行き12両編成の特急第一富士として運用中、踏切で直前横断しようとしたダンプカーと衝突。編成がZ字に折れ曲がるように6両が脱線し、先頭車のクロ151-7が大破。踏切には警報器等が無かった。
 クロ151-7は昭和36年7月10日付けで川崎車両で新造。東海道新幹線開業を控えており、長時間かけて修理するにしても、多額の費用をかけて代替新造するのも経済的でないということから、昭和39年9月8日付で国鉄新性能電車の廃車第1号となった。また新幹線開業の準備等で予備車が無く深刻な車両不足に陥ったため、161系と157系が使用された「替え玉」でやり繰りする。後にサロ150-3がクロ150-3に改造。また事故当日の第一富士の大阪〜宇野間は高槻所属の80系が代走。国鉄旧性能車が特急運用した唯一の事例となった。
画像 画像(衝撃画像注意)
35 クモハ165-3、モハ164-3、クハ165-58
1977年(昭和52年)3月8日(火) 20時30分頃
国(東) 上越本線 岩本〜津久田 岩本駅の手前約2キロメートル地点 (地図)
乗客1人死亡、111人負傷
 上野発新潟行きの705M急行佐渡3号として、12両編成に乗客837人を載せ運用中、崖から落ちていた直径約3.7メートル、重さ約30トンもの巨石に時速約70キロで衝突。4両が脱線し先頭車が東側にある国道17号線上へ約6メートル転落、2, 3両目が線路上で横転。落石の原因は雪止め水で地盤が緩んでいたこと。この時の乗務員は、この事故の前に上り列車を運転中、子どもをはねていた。そのことから人身事故に遭った乗務員をそのまま乗務させることが問題視された。
 クモハ165-3とモハ164-3は昭和39年3月23日に汽車会社で、クハ165-58は昭和39年6月30日に汽車会社で新造、全車新造から13年の昭和52年5月18日付けで廃車。
画像 画像(衝撃画像注意)
36 クハ165-190
1979年(昭和54年)6月2日() 4時31分頃
国(東) 信越本線 篠ノ井駅構内 (地図)
364人が怪我
 篠ノ井駅列車衝突事故の被災車。入れ替え中の貨車7両が切り替え作業ミスで暴走、本線に進入したところに信州大学附属中学校と市立篠ノ井中学校の生徒が乗る、名古屋発長野行きの8両編成の修学旅行列車とに衝突。衝突時、貨車は時速5キロメートルで修学旅行列車は時速30キロメートル程度。貨車2両と修学旅行列車の先頭車が脱線し、修学旅行列車の先頭車が転覆。操車係が入替開放時に構内掛けを確認せず、係員が居ないまま貨車を突放したのが原因で、操車係3人が逮捕された。
 クハ165-190は昭和43年10月29日付けで汽車製造で新造。昭和54年11月27日付けと新造11年で廃車。
画像(衝撃画像注意)
37 クハ165-202
1970年(昭和45年)7月1日(水) 9時3分頃
国(東) 房総西線(現・内房線) 保田〜浜金谷 (地図)
乗客4人が軽傷
 千倉発両国行きの急行「うち房2号」(千倉〜千葉は各駅停車扱い)として乗客約300人を乗せ7両編成で運用中、鋸山トンネルの千葉寄り出口付近で約130立方メートルの土砂崩れに時速約40キロメートルで突入した。前3両が脱線し、先頭車が右側の天王川の河原に転落した。復旧の際に原型のままだと重すぎるため、先頭車は車体を2つに切断して搬出された。現場付近では事故前日から当日未明にかけて集中豪雨があり、線路内に土砂崩れが3箇所発生していた。
 クハ165-202は昭和43年6月25日付けで東急車輛で新造。昭和45年8月13日付けと新造2年余りで廃車。
画像(衝撃画像注意)
38 サロ165-24
1968年(昭和43年)11月23日() 5時40分頃
国(東) 高崎線 籠原駅構内 (地図)
無し
 籠原発大宮行きの10両編成の列車として運用するため2番のりばに向かう途中、9両目の通過中にポイントが切り替わったため、8, 9両目が脱線した。脱線した9両目が架線柱2本に接触、倒壊させたため架線が切断され、車体が「く」の字に折れ曲がった。原因は運転士の信号見落としと無断退行。2番のりばには既に別の列車が在線して赤信号であり、列車はポイントを割って4番のりばに向かった。運転士は慌てて停止、後退したが9両目の通過中にポイントが自動的に切り替わったため、9両目と次の8両目が泣き別れ脱線した。乗客は居なかったため死傷者は無し。
 サロ165-24は川崎重工で昭和38年5月23日に落成したが、昭和44年5月8日付けで6年と短命に廃車。サロ165で唯一非冷房のまま廃車された車両。
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39 クハ167-2
1982年(昭和57年)9月14日(火) 14時17分頃
(国東) 伊豆急行線 川奈駅構内 (地図)
不明
 下田発伊東行回送電車として8両編成で走行中、川奈駅構内でポイント故障により脱線した。
 事故車は昭和59年3月19日付けで廃車になるまで伊豆高原車庫に留置。代替に神領車両区で廃車予定だったクハ165-3を転属。
画像:後部3枚目の窓付近から台枠や床下機器が曲がっている。
40 モハ168-5
1977年(昭和52年)7月25日(月) 14時15分頃
国(東) 信越本線(現:しなの鉄道線) 上田〜西上田 蟹町踏切付近
8人が軽傷
 上野発長野行きの305M急行信州2号として乗客約630人を乗せて12両編成で運用中、異常な高温でレールが膨張しゲージが狂った区間に時速約90キロメートルで進入、6両目から12両目の後7両が脱線して約200メートル暴走した。この日上田市は気温が30度を超えていた。
 モハ168-5は昭和43年9月12日付で日本車両で新造、昭和53年3月10日付と経年10年で廃車。ユニット相手のクモハ169-5は事故後留置、後にクモハ169-9を失ったモハ168-9とユニットを構成し、2代目のクモハ165-9に改番され幕張へ転属。
画像
41 モハ181-202
1979年(昭和54年)1月17日(水) 17時45分頃
国(東) 上越本線 沼田〜後閑
1人死亡(乗用車の運転手?)
 上野発新潟行きの特急とき21号として運用中、踏切で乗用車に側面衝突された。乗用車が炎上し、モハ181-202にも延焼して使用不能となったため廃車。
 被災車はモロからの格下げ改造からわずか3ヶ月後だった。ユニット相手のモハ180-202は廃車保留中だったモハ181-29と組んで復帰。モハ181-202は同年2月20日付けでモハ181-29のペアだったモハ180-13と共に廃車。
42 クハ183-17
1973年(昭和48年)11月23日(金) 17時21分頃
国(東) 内房線 那古船形〜館山 内132踏切(通称:一中踏切) (地図)
35人が重軽傷
 東京発館山行きの9両編成の特急さざなみ6号として乗客約450人を載せて運用中、踏切で底部を擦り立ち往生していた、約20トンの船舶用エンジンを積載したトレーラーと衝突。列車の先頭車前2軸が脱線してトレーラーの荷台に乗り上げ、約100メートル走行して湊川鉄橋上に達した。この事故でクハ183-17の前面はくの字型に凹み大破したが、館山駅の近くだったため速度が遅く転覆は免れ、高運転台のおかげで運転士は無事だった。トレーラーは近くの国道127号線が工事中だったため迂回していた。トレーラー運転手はトレーラーから降りて懐中電灯を持って線路際に居たため無事だったが、過失往来危険、業務上過失傷害の現行犯で逮捕された。
 クハ183-17は昭和47年6月30日付で川崎重工で新造、昭和49年2月12日付で廃車となり実働1年5ヶ月と短命だった。代替車は続番のクハ183-39として新造。
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43 クハ200-4、モハ200-6、モハ201-6、モハ200-5、モハ201-5、クハ201-4、クハ200-3、モハ200-4、モハ201-4
1988年(昭和63年)12月5日(木) 9時37分頃
中央緩行線 東中野駅 (地図)
後続列車の運転士と乗客1人が死亡、両列車の乗客116名が負傷
 東中野駅列車追突事故の被災車。千葉発中野行の10両編成の各駅停車835Bとして運用中、東中野駅に停車していた先行列車の津田沼発中野行の10両編成の各駅停車805C(ラシ336編成。最後尾はクハ103-277)に追突した。原因は、当時慢性化していた遅延への対処としてATS-Bを確認扱いにし、停止信号警報を確認扱いにして一旦停止せず走行する「追い上げ運転」を行っていたこと。現場は見通しの悪かったため、非常ブレーキが間に合わずに衝突した。昭和39年、昭和55年にも同じ場所で同じ追い上げ運転による追突事故が発生している。この事故と平成元年4月13日の北殿駅の事故を契機にトランスポンダ式ATS-Pが急速に普及しはじめた。
 追突した201系はミツ6編成。ミツ6編成は10両全車が昭和56年9月3日付で東急車輛で新造。クハ200-4、モハ6ユニットは平成元年7月25日、他中間車6両は同年3月23日付と新造8年で廃車。最後尾のクハ201-3は損傷がほとんど無く廃車を免れが、特に用途も無く営業運転も殆どすることがなかった。約18年間留置された後、201系の置き換えに先駆けて、平成17年12月20日付けで廃車となった。
画像(衝撃画像注意) 画像(衝撃画像注意)
44 クハ201-38
2007年(平成19年)6月
中央快速線
不明
人身事故で前面の表示器を破損。廃車間近だったため修理すること無く、そのまま廃車になった。
45 サハ205-4
1989年(平成元年)7月〜8月頃
大井工場内 (地図)
無し
 全般検査中、車両移動機から据え置き台に移動させる際に、固定器具がなんらかの原因で緩まり車体が妻面から落下し破損。東急車輛で部品を流用しつつ車体を代替新造した。平成2年5月に復帰。新造した車体は妻面や雨どいの形状、帯の処理などが他車と異なり、前期車と後期車のパーツが組み合わさっている。
  サハ205-4は昭和60年2月14日付で日立製作所で新造。なお、事故車の代替新造中はちょうど6ドア車の試験が行われていたため、編成の残りの車両はサハ205-4の代わりに6ドア車をで代用して営業運転を続けた。
46 モハ204-219
2014年(平成26年)2月15日() 昼ごろ
横浜線 長津田駅付近?
無し?
 大雪で切断された架線が車体に接触し、アーク跡が車体に残った。翌2月16日からE233系6000番台の営業運転が開始されたため、修理されずに運用を離脱した。事故当日は車体を損傷したまま営業運転を継続した。
 クラH20編成。同年4月4日付けで廃車。
写真
47 モハ205-236、モハ204-236
2008年(平成20年)10月26日(
中原電車区構内 (地図)
整備士1人が重傷。
 モハ204-236の電動発電機(MG)の整備作業時に、パンタグラフを上げてバッテリーも接続したまま絶縁すること無く作業を行っていた。抵抗値が適性で無かったところに抵抗管の部品を外すスパナが触れたことで、低圧回路に1500Vの電流が流れ激しいアークが発生。回路に過大な電流が流れたことで床下機器が損傷して自走不可となった。この事故以後JR東日本の電車の高電圧機器には注意書きのあるシールが貼りつけられた。
 事故車は平成22年6月14日に長野へ廃車回送された。
48 モハ205-386、モハ204-388
2007年(平成19年)1月21日(月) 8時8分頃
川越線 指扇〜日進 (西大宮駅は未開業) 日進第一踏切 (地図)
自動車の運転手が死亡。
 川越発新木場行きの10両編成の普通列車708Fとして運用中、踏切で左側から進入した乗用車に時速約70キロメートルで衝突。約160m行き過ぎて停車したところ、7両目のモハ204-388の左側で自動車が炎上、延焼した。ステンレス製の車体が波打ち、窓や座席も焼損したため廃車。事故該当編成(ハエ24)が自走できなくなったため、ハエ26を救援列車として連結して20両編成になった。しかし時速約15キロメートルで走行中にATSが作動して救援編成に常用最大ブレーキがかかったが、事故編成はブレーキが作動しなかったため、追突されるような形で救援編成の事故車寄り先頭車(クハ205-137)が脱線した。川越線は終日運休した。この日は大学入試センター試験の2日目であったため、受験生に多大な影響が及んだ。
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49 クハ205-3107、モハ205-3107、モハ204-3107、クハ204-3107
2011年(平成23年)3月11日(金) 14時46分頃
仙石線 石巻駅構内 (地図)
無し
 東日本大震災の被災車両。石巻行き4両編成の普通列車1321Sとしての運用を終えて駅構内に停車中に被災。津波に冠水した。
 クハ205-3107はサハ205-44、クハ204-3107はサハ205-43、モハ3107ユニットはモハ71ユニットからの改造車。石巻駅で1年半に渡る長間留置・一部部品の除去も行われていたが、地震から1年半近くたった平成24年9月6日に総合車両製作所へ甲種回送された。復旧するものかと思われたが、仙石線にHB-E210系が投入されることからか平成26年12月25日付で車籍が抹消。車体は切断の上で北館林へ輸送された。
50 クハ205-3109、モハ205-3109、モハ204-3109、クハ204-3109
2011年(平成23年)3月11日(金) 14時46分頃
仙石線 野蒜〜東名 (地図)
列車内ではなし
 東日本大震災の被災車。石巻発あおば通行き4両編成の普通列車1426S列車として運用中、地震のため緊急停止。その後津波に押し流され脱線転覆、民家にL字形にへばりつくような形となった。乗客40余名は乗務員によって近くの野蒜小学校に避難誘導されたため、列車からは安全に避難できたが、数名が避難先の野蒜小学校で津波に飲み込まれ亡くなった。地震後、翌日になるまで列車との連絡が付かなかったため「津波で流されてしまったのではないか」と大きく報道され、JR東日本社内では緊張が走った。
 クハ205-3109はサハ205-164、クハ204-3109はサハ205-165、モハ3109ユニットはモハ77ユニットからの改造車。地震翌日に車籍抹消、同年4月24日に現地解体。
画像 新聞記事 新聞記事
51 クハ207-17、モハ207-31、モハ206-17、クハ206-129、クモハ207-1033、サハ207-1019、クハ206-1033
2005年(平成17年)4月25日(月) 9時18分頃
西 JR宝塚線(福知山線) 塚口〜尼崎 (地図)
乗客106名と運転士が死亡、562人が負傷
 福知山線脱線事故の被災車。宝塚発前4両同志社前行き・後3両京田辺行きの7両編成の快速列車5418Mとして運用中、時速70キロメートル制限(事故後60キロメートル制限に変更)の半径300mの左カーブに時速約108キロメートルで差し掛かり脱線。1両目が横転しながら線路際のマンション(エフュージョン尼崎)に突入、2両目がマンション外壁に衝突しL字形に大破、3両目が前後反転し対向線路を支障する形で大破、4両目と5両目も脱線、衝突した。全く余裕の無いダイヤと、遅延による日勤教育を恐れた運転士がスピードオーバーしたままカーブに差し掛かったのが主原因。ボルスタレス台車や軽量ステンレス車体、乗客が多く重心が上がったことも指摘されている。その後のJR西日本の対応や、浮き彫りになった企業風土などが大きく報道された。
 前4両のZ16編成は平成4年2月20日付で日立製作所で、後3両のS18編成は平成7年3月27日付で近畿車輛で新製。前4両は事故当日付で廃車。後3両は兵庫県警に押収され姫路市内で保管されていたが、平成23年2月1日付けで返却された。返却後も事故を風化させないための展示品とするため修理せず廃車になる予定だが、平成25年11月時点では宮原操車場の1番奥に留置されているらしい。
CG画像 画像 画像(衝撃画像注意) 画像(衝撃画像注意):3両目モハ206-17の車内
52 クハ209-69
2002年(平成14年)1月19日() 18時40分頃
蒲田電車区構内 (地図)
無し
 京浜東北線南浦和発蒲田行きの普通列車として運用を終えた後、回送列車として車庫に向けて時速約20キロメートルで走行中、分岐器上を走行中にも関わらずポイントが切り替わったため最後尾の車両が脱線。およそ2m線路から外れ台枠や車体に歪が生じた。
 該当編成はウラ67。初代は平成9年5月2日に新津車両製作所で新製で、事故のため約5年で車体振替となった。車両番号シールに特徴があったが、クハ209-2102へ改造される際に剥がされた。
53 サハE230-500(車番無し)
不明
新津車両製作所(現:総合車両製作所 新津事業所)内
無し
 新造中に車輪止めを置き忘れ壁に衝突。代替新造となった。
54 サロE230-1005、サロE231-1005
2004年(平成16年)2月24日(火) 8時45分頃
東急車輛製造 (現:総合車両製作所) 横浜製作所内 (地図)
無し
 甲種輸送前日の新造試運転時に、ポイントの操作ミスで塀を突き破るように衝突し破損。修理しようとしたが、JRが受け取りを拒否し代替新造を要求したため、事故車体は放棄された。
 翌日の甲種輸送は5ユニット10両で行うはずだったが、事故のため4ユニット8両だけ輸送された。
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55 クハE233-61、モハE233-61、モハE232-61、モハE233-261、モハE232-261
2008年(平成20年)9月8日(月) 18時24分頃
青梅線 東青梅駅 東青梅第二踏切 (地図)
トラック運転手1人が軽傷
 青梅発立川行きの普通列車1816レとして10両編成で運用、時速60キロで走行中、警報機と遮断機が動作しているにも関わらず踏切に侵入した居眠り運転の4トントラックと衝突。トラックが踏切のポールに引っかかり1両目から5両目までの側面に接触し車体や床下機器を破損、先頭車両が脱線した。
E233系は軽量ステンレス車体で修理が困難なため東京総合車両センターで解体・代替新造された。書類上は修理扱い。
 該当は青661編成。平成19年11月20日付けで川崎重工で落成したが、1年足らずで車体を放棄。代替車は平成21年3月19日付けで新津車両製作所で製造された。そのため新編成では残ったクハE233-519のみ車体構造が異なる。
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56 クハE233-1077、サハE233-1277
2014年(平成26年)2月23日() 1時11分頃
京浜東北線 川崎駅構内 (地図)
運転士と車掌の2人が軽傷
 桜木町行きとしての運用を終え、折り返し10両編成の桜木町発蒲田行き回送列車2402Aとして運転士と車掌の2人を乗せて運用中、川崎駅通過後の4番線上で工事用の資材運搬車と衝突した。先頭車のクハE233-1077が左側に横転し大破、2両目のサハE233-1277も脱線し傾いた。成田線大菅踏切事故を受けて設置されたクラッシャブル構造のおかげで、運転士と車掌は軽いけがを負ったものの無事だった。救出の際には窓ガラスや正面のFPR部分を切り取って救助した。資材運搬車の乗員は衝突前に避難していたため、人的被害はなかった。原因は調査中だが、工事用の資材運搬車が予定より2分早く本線に進入したことが考えられる。資材運搬車は絶縁車輪を使用しているため、ATC等では検知されなかった。資材運搬車の重量は約60トン。
 該当はウラ177編成。平成21年10月15日に川崎重工で新造。事故後脱線した2両は川崎埠頭へ陸送され、同年8月頃に姿を消した。解体されたものと思われる。廃車日は平成28年12月4日付。
 残り8両はDE10に牽引されて東京車両センターに入場している。東京上野ライン開通に伴う運用減のためか、平成29年3月現在代替車はない。
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57 クハE350-103、クハE351-103、モハE351-6、モハE350-103、サハE351-3
1997年(平成9年)10月12日() 20時2分頃
中央本線 大月駅構内 (地図)
乗客1人が重傷、乗客61名と回送列車の運転士が軽傷
 大月駅列車衝突事故の被災車。新宿発松本行き12両編成の13M特急あずさ13号として運用中、時速約105キロメートルで大月駅を通過する際に入替中の回送列車(クハ201-116以下6連)が時速約25キロメートルで「あずさ」の側面へ衝突。回送列車の前2両と特急の4両目〜8両目が脱線し8両目(サハE351-3)が横転した。原因は回送列車の運転士がATSを切って入替作業を行っている時、特急列車への進行現時を回送列車へのものだと誤認したため。この事故の後、201系等のATSの開放スイッチはプラ板で封印された。
 351系5両を同車番で代替新造となった。
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58 クモハ381-4、モハ380-90
2009年(平成21年)8月31日(月) 10時45分頃
西 伯備線 黒坂〜根雨
無し?
 岡山発出雲市行きの特急やくも5号として運用中、ノッチを投入しても加速できないという車両故障を発生させた。根雨駅でパンタグラフを下げて応急処置を行った。
 その後修理を行うこと無く、平成23年2月15日付で廃車。
59 モハ380-1055、モハ381-1055、モハ380-1044、モハ381-1044
2014年(平成26年)8月16日(
西 福知山線 丹波竹田駅構内 (地図)
無し
 集中豪雨で冠水した。
 北近畿の381系は北陸新幹線開業に伴う681系・683系転用までの繋ぎだったこともあり、修理せずに同年12月13日付で廃車。代替にモハ381-1032・モハ380-1032・モハ381-1039・モハ380-1039を転用した。
60 クハ401-52、モハ402-1
1979年(昭和54年)3月29日(木) 15時5分頃
国(東) 常磐線 土浦〜神立 鹿島街道踏切 (地図)
乗客57人と運転士が重軽傷。ダンプカーの運転手は死亡
 平発上野行き12両編成の上り普通列車482Mとして運用中、踏切の警報機を無視して進入したダンプカーと衝突。電車・ダンプカー共に大破し踏切から約70mのところで先頭車が左下に約2メートル転落、その130m先で2両目が脱線してようやく停止。この時架線を切断し友部〜取手がストップし翌日まで混乱した。
 まだ「赤電」と言われていた頃の事故。両車とも昭和41年7月2日付で東急車輛で新造。クハ401-52は4月19日、モハ402-1は4月14日に経年13年で廃車。モハ402-1のペアのモハ403-1は別のモハ400とユニットを組みモハ401-26に改造、反対側の先頭車クハ401-51は方転改造。
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61 クハ421-43
1974年(昭和49年)5月4日() 15時23分頃
国(九) 鹿児島本線 古賀〜筑前新宮(現:福工大前) (ししぶ、新宮中央は未開業) 無番額踏切
乗客37人が負傷
 南福岡発門司港行き8両編成の特別快速として運用中、第1種踏切の無番額踏切内でエンストし立ち往生していた大型トラックに衝突。脱線し先頭車がくの字形に変形し大破した。車内は満員でけが人は多数出た。トラック運転手は降りていたため無事。復旧の際廃車体を盛土上から転がして撤去。
 クハ421-43は昭和40年5月13日に日立製作所で新製。昭和49年6月8日付と経年10年で廃車。代替新造はクハ411-335。
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62 クハ455-45
1973年(昭和48年)9月8日(
国(東) 仙山線 愛子〜陸前白沢
66人が重軽傷
 急行仙山1号として運用中、踏切内で立ち往生していたトラックに衝突。5両が脱線し先頭車が転覆。
 クハ455-45は昭和41年4月13日付けで日立製作所で新造。昭和48年10月16日付けと新造7年半で廃車。代替に余剰になっていた金沢のサハシ455-18を、郡山工場にてクハ455-201へ昭和50年10月3日付けで改造。
63 クモハ475-24、モハ474-24、クハ455-602
2007年(平成19年)3月5日(月)
日豊本線 加治木駅付近
不明
 踏切事故に遭遇し、先頭のクモハ475-24が焼損した。
 廃車対象だったためそのまま編成ごと廃車となった。
64 クロ481-53、モハ484-221、モハ485-117
1981年(昭和56年)6月7日() 13時51分頃
国(九) 長崎本線 久保田〜牛津 柳堀踏切付近 (地図)
乗客17人が負傷
 博多発長崎行き・佐世保行き12両編成の2021M特急かもめ・みどり11号として運用、時速約90キロメートルで力行運転中、柳掘橋梁付近の左側半径800メートルのカーブで左側レールが2箇所、横に波打っているのを発見。非常ブレーキを使用し約340メートル走行して停車したが後ろ寄りの7〜12号車(かもめ後ろ2両とみどり全車両)が進行方向右側に脱線、後ろ2両が上り線を支障した。架線柱に接触したため転覆は免れた。原因は枕木とレールの締結部分が緩み暑さでレールが伸びたこと。約43度まで過熱されていた。この事故の前日には篠ノ井線でゲージ狂いによる脱線があるなど、ゲージ狂いによる重大事故が多発していた。多発する事故に対し、当時の塩川運輸大臣が高木国鉄総裁に異例の口頭注意を行い、全国で線路状態を緊急総点検が行われた。
 3両とも昭和56年7月27日付けで廃車。特にモハユニットは昭和47年10月16日に日本車両で新造、車齢9年と短命だった。国鉄時代に唯一485系が廃車された事故。
画像(衝撃画像注意)
65 クハ481-3506、モハ485-3044、モハ484-3044、モハ485-3018、モハ484-3018、クロハ481-3010
2005年(平成17年)12月25日() 19時14分頃
羽越本線 北余目〜砂越 (地図)
先頭車の乗客5人が死亡、乗客乗員33人が重軽傷
 羽越本線特急脱線転覆事故の被災車。秋田発新潟行6両編成の上り第2014M特急「いなほ14号」として運用中、第2最上川橋梁を時速約105キロメートルで通過した直後に突風に煽られ全車両が脱線。前3両が盛土から転落して転覆、先頭車は線路沿いの堆肥小屋に衝突しL字型に大破した。原因は局地的に発生したダウンバーストあるいは竜巻に煽られ転覆したため。事故当時、山形県庄内地方では暴風雪・波浪警報が発令され、前線を伴った温帯低気圧の暖域に入り横なぐりの雨が降っていた。事故現場近くの第2最上川橋梁付近では、余部鉄橋列車転落事故で問題となった水平方向以外の風力を性格に測定できないパドル型風車利用の風速計を使用していたことと、JR東日本新潟支社の管制室のファックスが故障し正確な気象情報を得られなかったことも原因としてあげられる。JR東日本としては東中野事故以来の旅客死亡事故。当初先頭車両で女性と子どもの2人が行方不明と言われ大規模捜索が行われたが、事故発生以前に下車して無事だったという騒ぎがあった。
 被災車両は警察の保安命令解除後の平成19年3月31日付けで全車廃車。特にクロハ481-3010はクハ481-1001として新造、昭和50年代前半に踏切事故で大破、1年の放置を挟んで修理復旧、クロハ481-1010→クロハ481-3010と改造された経歴を持つ。
画像(衝撃画像注意) 画像(衝撃画像注意)
66 クハ489-602、モハ488-222、モハ489-37、サロ489-14、モハ488-221、モハ489-36、モハ488-220、モハ489-35、クハ489-202
1996年(平成8年)11月24日() 17時05分頃
信越本線 長野駅構内 (地図)
乗客8人が負傷
 長野駅を発車した489系9両編成による臨時特急あさま88号の側面に、留置線から出ようとしたしていた特急あさま32号となる予定だった189系9両編成の回送列車が、489系の後ろ4両の左側面に接触。双方とも脱線はしなかったが、あさま88号の窓ガラスが十数枚割れ乗客8人が軽傷を負った。原因はあさま32号の運転士が停止信号を見落としたため。
 先頭車が損傷した189系はアコモ車であったため復旧がなされたが、489系は数両にわたり側面が損傷したため編成ごと廃車。冬季シーズン・長野オリンピック・新幹線開業を控えた時期に2編成が使用不能となったため、189系を各地から集め、一般車とアコモ車が混結する珍編成(N401編成)が組成された。
67 モハネ583-59、モハネ582-59、モハネ583-95、モハネ582-95、サハネ581-53
1990年(平成2年)2月11日(日祝) 午前2時頃
東北本線 仙台駅構内 (地図)
無し
 上野発青森行きの下り寝台特急6001Mゆうづる1号として12両編成で運用、仙台駅を時速約85キロメートルで通過しようとしたところ、ポイントが電車区側に切り替わっており高速度のまま進入、前から7両が脱線し約390メートル暴走した。乗員乗客158人にケガはなかったが、火事が起きているというデマ騒ぎが起き、避難誘導も行われずパニックとなった。原因は直前に近くで信号試験が行われていたことで信号が本線・分岐が電車区側になる異常な表示がされていたため。事故当時、3月10日のダイヤ改正での仙石線高速化に向けて信号機の新設工事を行なっていたが、一部の信号機を本来のシステムとは違う模擬装置でテストしながら稼働させていた。この際に配線を誤りポイント異常が発生していた。
 5両が同年7月23日付で廃車。先頭のクハネ(車両番号不明)も損傷したが車両供給の関係上半年掛けて修理し復旧。
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68 クロ683-1
2000年(平成12年)末頃?
西 日立製作所 笠戸工場内 (地図)
-
 新造直後の性能試験運転中、ブレーキが故障し車止めに激突。車体が大きく歪む。慌てて事故現場に「衝突試験」と書いた看板を設置したのはもはや伝説。6+3の9両編成のうち事故車以外の8両を先にJRに引渡した。しかし数日後、残りの8両で琵琶湖周辺を試運転中、交流区間に入った途端2ユニットが故障して試験中止、1M7Tで車庫に戻るというトラブルも発生した。更にサンダーバードとしての営業運転初日に人身事故を起こし、先頭車にへこみができる事故に遭遇。この事故に関しては箝口令が敷かれたが、683系の日立製作所からの出場、及び最初の公式試運転は不自然な8両編成で行った上、披露時の9両編成ではクロ683-1だけ妙にピカピカでバレバレ。
 クロ683-1は2ヶ月で急遽代替新造。書類上も8両は平成13年1月9日付けで新製されているが、クロ683-1のみ2月28日となっている。営業運転初日は3月3日。
画像(8両での試運転時)
69 クモハ701-5、クハ700-5
2016年(平成28年)1月17日(日祝) 午前5時42分頃
津軽線 中沢駅近くの中長科踏切
無し
 蟹田発青森行きの普通列車332Mとして3両編成で運用中、中長科踏切上で除雪車と接触した。脱線はしなかったが、車体が中破した。普通列車に乗客はおらず、双方の乗務員4人にけがはなかった。
 秋田所属のN5編成。クモハ-サハ-クハの3両編成のうち、損傷したクモハと用途がなくなったクハが廃車となった。サハはN29編成に挟み込む形で復旧。
69 クモハ701-1033、クハ700-1033
1999年(平成11年)10月28日(木) 午前11時頃?
東北本線 青森駅構内 (地図)
無し
 青森駅に留置中の車両が高波を受けて転覆、床下機器に浸水。事故車体は放棄、代替として1500番代を新造したが、税務上の都合で書類上では川重で修理して1500番代に改造となっている。
 クモハ701-1033とクハ700-1033は平成7年12月8日付けで土崎工場で新製。書類上は平成12年12月14日に川崎重工でクモハ701-1508・クハ700-1508へ改造。
70 クモハE721-1、クハE720-1、クモハE721-19、クハE720-19
2011年(平成23年)3月11日(金) 14時46分頃
常磐線 新地駅構内 (地図)
無し
 東日本大震災の被災車。仙台発原ノ町行き4両編成の普通列車244Mとして運用、沿線火災による安全確認のために新地駅で停車中に地震に遭遇。その後の大津波によって新地駅ごと押し流され脱線転覆、原型を留めないほどに押しつぶされて大破。乗員乗客約40名は、たまたま乗り合わせていた検修の修了式を終え、赴任先の相馬市内の駐在所に向かう途中だった若い警察官2名による避難誘導で高台に避難したため無事。
 P1編成は平成18年11月28日川崎重工で、P19編成は平成19年3月23日川崎重工で新造され、実働4年程度であった。地震翌日に車籍抹消、同年4月14日から数日間で現地解体。
画像(衝撃画像注意) 画像(衝撃画像注意) 画像(衝撃画像注意) 画像1番上がクハE720-1、その下がクモハE721-1、右下の折れ曲がっているのがクハE720-19、その左側がクモハE721-19。
71 クハ789-2005、モハ789-2005、サハ788-1005、モハ789-1005、クハ789-1005
2010年(平成22年)1月29日(金) 12時24分頃
函館本線 深川〜妹背牛 深川6号線踏切 (地図)
運転士が重傷、乗客39人が軽傷。トラック運転手も軽傷。
 函館本線深川踏切事故の被災車。旭川発札幌行5両編成の2024M特急スーパーカムイ24号として運用中、スリップして踏切で立ち往生していたダンプカーと衝突。クハ789-2005とモハ789-2005が脱線し先頭車とダンプカーが大破した。先頭車のクハ789-2005は大破したが、安全性を考慮した高運転台を採用していたため、運転士は生存できたと言える。この事故以後、JR北海道の高運転台特急車の先頭貫通路部分が閉鎖された。
 事故後クハ789-2005とモハ789-2005はしばらく線路脇に留置、後に陸送で苗穂工場に移動された。このHL1005編成は平成19年9月5日に川崎重工で新造され実働2年半だった。一見損傷が無いように見える後ろ3両も、連結器部分が歪んでいたらしく、平成23年3月24日付けで編成ごと廃車。JR北海道によると事故による損害は約11億円。
画像(衝撃画像注意)
72 クハ810-2、サハ811-2、モハ811-2、クモハ810-2、クモハ813-101、サハ813-101、クハ813-101、クモハ813-8、クハ813-8、クモハ813-231、サハ813-231、クハ813-231
2002年(平成14年)2月22日(金) 21時30分頃
鹿児島本線 海老津〜教育大前 (地図)
乗員3人と乗客131人が重軽傷
 鹿児島本線列車追突事故の被災車。猪と衝突し停止していた門司港発荒尾行きの7両編成の普通列車2367M(最後尾クハ813-101)に、後続で無閉塞運転中の門司港発荒木行きの5両編成の快速4379M(先頭車クモハ813-8)が追突。原因は後続列車の運転士が中継信号を自列車のモノと誤認して加速したためで、先行列車がカーブの先に止まっていたためブレーキが間に合わなかった。平成9年の片浜での事故と酷似した状況。
811系P2編成(4連)+813系R101編成(3連) ← 813系R8編成(2連)+813系R231編成(3連) と言う形で衝突。
 P2編成は平成元年7月27日に近畿車輛で、R101編成は平成7年1月12日に近畿車輛で、R8編成は平成6年2月25日に小倉工場で、R231編成は平成10年9月17日に近畿車輛でそれぞれ新造。813系全車と811系の電動車がそれぞれの車端部を圧壊する形で大破。ステンレス製で修理が困難なため平成14年3月29日に製造から4〜14年で廃車となった。損傷が少なかったクハ810-2は平成14年10月11日、サハ811-2も平成15年3月12日に廃車された。クハ810-2の運転台は九州鉄道記念館の運転シュミレータに転用されている。
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73 クモハ885-3、モハ885-3、サハ885-3
2003年(平成15年)7月18日(金) 21時45分頃
長崎本線 肥前長田〜小江 (地図)
乗員乗客37人が重軽傷
 長崎本線特急列車脱線転覆事故の被災車。博多発長崎行き6両編成の第2046M特急かもめ46号として運用、時速約120キロメートルで走行中、線路上に大雨で落石した直径約40cm・重さ約130kgの岩石を発見。非常ブレーキを手配したが間に合わず衝突し脱線。1両目が右側で前後逆転し横転、2両目が左側の水田に転落し、3両目が2両目に乗り上がる大規模な事故となった。運転台部分が埋まっていたため、事故直後は運転士の安否が案じられた。事故当初、先頭車が水田に水没し大きな被害が予想されたためNHKが特別報道体制を敷いた。
 代替として400番台3両を新造。JR九州によると事故による損失は約13億円。
画像(衝撃画像注意) 画像(衝撃画像注意)


新幹線車両


74 21-1010、26-2229、37-1022、26-1020、25-2704、22-1010
2003年(平成15年)夏
西 岡山駅周辺?
不明
 運用中に電動機から発煙した。
 山陽こだまの原色P編成。故障に伴い運転打ち切りとなり、その後岡山駅に回送され留置されたが、廃車時期が近かったため修理せず廃車となる。後に岡山駅から博多総合車両所まで、深夜に新塗装の100系K編成に牽引され廃車回送された。
75 21-2003、26-2005、25-657、26-911、25-814、26-912、27-67、36-67、37-2506、26-1301、15-67、16-2001、25-658、26-2006、25-2004、22-2003
1989年(平成元年)12月7日(木) 0時6分頃
名古屋車両所内 (地図)
無し
 名古屋車両所内で仕業検査のため検査工場に入ろうとした16両編成の列車が、停止線を越えて過走して車止めに衝突。車止めの先にある鉄筋コンクリート造りの検査用サービスデッキに突入した。先頭車と2両目(21-2003、26-2005)が脱線。3〜5両目の連結器や連結器緩衝装置、ATC機器、汚物タンクなどが破損。車止めの先にある検車工場の壁にもヒビが入った。本線のダイヤに影響はなかった。工場内はATCを切って手動で運転する構造になっており、規則では時速10キロ以下、車止めの31メートル手前で一時停止、11メートル手前まで再度進んで停止することになっていたが、事故列車の運転士は31メートル手前の一時停止を行わず、時速7キロ程度で車止めに衝突した。
 事故列車の先頭車は昭和57年新造だが同年12月25日に新造8年で廃車。他の15両も平成2年〜4年にかけて順次廃車。事故の詳細を調査するためのものと思われる。また同じ日に、新幹線浜松工場内で100系2階建て車両の新車搬入中に、機関車と新車が脱線する事故が発生した。
76 123-9、126-41、125-33、126-42、125-34、126-43、125-509、148-3、149-103、116-9、126-44、125-35、126-45、125-36、124-9
2002年(平成14年)?
西(海) 東海道新幹線
不明
 東海管内で脱線事故を起こした。
 JR西日本の100系G3編成。100系の廃車が進行していたため、16両編成のうち中間8両はJR西日本に返却されること無く浜松工場で解体。残り8両で編成を組み、平成14年12月2日夜にJR西日本に浜松発博多行回送977Aとして自走回送した。7両が博多総合車両所で解体、125-709のみP7編成の125-3758として山陽こだま編成へ転用された。廃車された123-9、124-9の先頭部も短編成化に再利用されたと思われる。
77 221-1505、226-1043、225-1013、226-1032、225-1004、226-1009、225-482、226-1033、215-31、222-1505
2004年(平成16年)10月23日() 17時56分頃
上越新幹線 浦佐〜長岡 (地図)
無し
 上越新幹線脱線事故の被災車。東京発新潟行き10両編成の325C、「とき325号」として時速約200kmで走行中に長岡市で震度6弱を記録した新潟県中越地震が発生し、6・7号車を除いた8両が脱線。ユレダスによって非常ブレーキが作動し1.6km滑走して停車。営業運転中の新幹線としては初めての脱線事故となった。排雪溝に落下したこと、高架橋や車両が頑丈であったこと、対向列車が無かったことなどが重なり乗員乗客155人に死傷者は無し。
 平成17年3月25日付けで廃車。事故の詳細を調査した後、JR東日本の社員教育施設に資料として保存されている。代替はE2系J69編成。
画像
78 783-2059
2015年(平成27年)6月30日(火) 11時30分ごろ
東海道新幹線 新横浜〜小田原 (地図)
犯人の男と乗客1人の2人が死亡、乗員2人と乗客26人が重軽傷
 東京発新大阪行のぞみ225号として16両編成(N700系X59編成)で運用中、先頭車の最前部付近で71歳の男がガソリンを被りライターで着火、火災が発生した。列車は緊急停止し運転士が消火器で消し止めたが、煙が2号車まで充満し、1号車後方のデッキ付近で乗客の52歳女性が煙に巻かれて死亡した。男は1号車運転台後のデッキ部分で焼死した。1号車の783-2059は最前部の座席3列が骨組みだけに焼けただれ、樹脂製の窓やカバーなどが溶ける損傷。2号車の787-2059も2列目付近までススが付着した。新幹線として初めての列車火災。
 X59編成は平成22年11月21日付で日本車両で新製。平成28年6月に日本車両で代替新造され、この車両だけN700系1000番台仕様となっている。書類上は初代783-2059は廃車、同番号での新製。
画像(衝撃画像注意)
79 MLU002
1991年(平成3年)10月3日 15時38分頃
宮崎リニア実験線(宮崎県日向市)
無し
 車輪走行による実験走行の際に、全焼事故を起こした。原因はタイヤのパンクから発生した摩擦熱。ホイールにタイヤを固定するワイヤー2本が摩擦で切れたため、タイヤがパンクした。そのパンクしてロック状態のタイヤとコンクリート製のガイドウェイが接地したまま走行したため、摩擦熱が発生。リニアは軽量化の為に、車体がアルミニウム合金、炭素強化プラスチック素材を多用しており、台車部分に作動用オイルタンクがあったために火災に弱く、全焼してしまった。
 代替車は耐火性を強化したMLU002N。




気動車


80 キハ11-9
2006年(平成18年)6月27日(火) 10時24分頃
名松線 伊勢大井〜井関
無し
 伊勢奥津発鳥羽行きの2両編成の普通ワンマン列車404Cとして乗客14人を乗せ運用中、伊勢大井駅から南に約1.5キロメートル離れたカーブ上で、線路上に落ちていた直径約1.2mの落石に乗り上げた。列車は脱線せず乗客14人と運転士は無事であったが、落石を列車下部に抱き込み走行不能になった。落石は2つあり線路際の崖の中腹、約20mの高さから落ちたもの。
 キハ11-9は平成19年1月19日付けで廃車となった。
81 キハユニ17-2
1964年(昭和39年)6月16日(火) 13時1分頃
国(東) 越後線 新潟〜白山 (地図)
無し
 新潟地震の被災車。新潟地震で落下してきた新潟駅の東跨線橋の下敷きになり車体の高さが半分ほどに押しつぶされ中央で折損。車両は回送だったため車内での人的被害は無し。
新潟市新津鉄道資料館では落下し気動車を押しつぶした陸橋を市民が渡る様子の写真が展示されている。
 同車は昭和29年10月12日にキハ44601として新潟鐵工所で新造。昭和33年称号改正でキハ50-2となり、昭和36年に名古屋工場でキハユニ17-2に改造。昭和39年8月8日付けで経年10年で廃車。
画像 画像(衝撃画像注意)
82 キハ22-40、キハ22-90
1981年(昭和56年)8月6日(木) 19時27分頃
国(北) 胆振線(現:廃線) 御園〜新大滝 御路園
機関士が重傷、運転士が軽傷
 4日までの集中豪雨からの復旧1番列車であった倶知安発新大滝行き2両編成の普通列車として運用中、路盤が流失し約30メートルに渡り線路が宙吊りになっている現場に突入。先頭車(キハ22-40)が崖から約35メートル下に台車等を撒き散らしながら転落し大破。この列車には乗客は居なかった。
 事故車は2両とも搬出困難で現地解体。書類上の廃車日は同年8月12日。
画像
83 キハ22-132
1980年(昭和55年)11月19日(水) 8時25分頃
国(東) 津軽線 油川〜津軽宮田 第3夏井田踏切 (地図)
乗員1名が死亡、18人が重軽傷
 青森発三厩行きの普通列車として運用中、踏切を無視し無謀横断したダンプカーと衝突。先頭車が脱線。列車に便乗して運転台に居た国鉄職員1名が死亡。
 キハ22-132は昭和56年6月9日付で廃車。
84 キハユニ25-6
1961年(昭和36年)
国(北) 不明
不明
 車両火災を起こしたため廃車。
原因はグロープラグ(エンジンの点火装置)の不具合。
 キハユニ25-6は昭和33年6月10日に帝国車輌で新造。昭和36年11月10日に稚内で廃車。わずか3年の活躍だった。代替にキハユニ25-7が新造されたが、キハ21ベースの他のキハユニ25とは異なりキハ22ベース。
85 キハ28-3013
2003年(平成15年)8月26日(火) 8時20分頃
土讃線 阿波川口駅構内 (地図)
無し
 高知発阿波池田行き各駅停車226Dとして2両編成で運用中、冷房電源用の発電エンジンの回転数がいつもより高いことに運転士が気づいた。そのため後免駅付近で運転士が発電エンジンを止めようとしたが、止まらなかった。土佐山田駅で待機していた車両検修員によって発電エンジンが停止させられたが、車内に白煙が流入したりなどする。そのまま運転を続けたが、阿波川口駅で床から炎が上がったため乗客を避難させ消火活動を行った。
原因は発電エンジンの部品脱落により燃料供給過多で異常燃焼を起こし、消音器が異常過熱されたため。
 修理せず平成16年3月31日付で廃車。
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86 キハ30-2
1978年(昭和53年)4月14日(金)
国(海) 名松線 家城〜関ノ宮
不明
 踏切でトラックと衝突する事故に遭遇。先頭車のキハ30-2がトラックに乗り上げた。
 昭和53年6月12日に伊勢運輸区で廃車。
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87 キハ30-6
1969年(昭和44年)11月29日() 22時23分頃
国(西) 草津線 石部〜手原
運転士が死亡、乗客2人が重傷、乗客15人と車掌が軽傷
 柘植発草津行の3両編成の下り列車745Dとして運用中、石部駅から約1キロメートルの線路上で、沿線の石部山から落下した約72立方メートルの岩石に、時速約60キロメートルの力行運転状態で衝突。前2両が全軸脱線、先頭車のキハ30-6は運転室を大破し進行方向右側に横転、線路沿いの川へ転落した。石部山では岩石採取が行われており、事故前の数日間は断続的に雨が降り地盤が緩んでいる状態だった。
 キハ30-6は昭和38年2月13日に日本車両で新造。昭和45年3月14日で廃車となり、7年と短命で廃車となった。
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88 キハ40-750
2000年(平成12年)7月14日(金) 5時56分頃
根室本線 尺別駅構内 (地図)
運転士、乗務員1名と乗客1人が軽傷
 釧路発芽室行き初発の普通列車として5両編成で運用中、尺別駅を通過する際にレール上に残っていた工事車両の横取装置に乗り上げた。全車両が脱線し、先頭のキハ40-750が尺別駅のプラットホームに乗り上げた。列車には乗客が1名のみで、その唯一の乗客は釧路から十弗駅に向かっていたトラベルライターの横見浩彦氏だった。
 キハ40-750はキハ40-123からの改造車。同月19日に廃車。
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89 キハ40-1795
2006年(平成18年)5月30日(火) 22時頃
函館運輸所構内 (地図)
無し
 入換中にDD51-1006に衝突する事故に遭遇。台枠が損傷し廃車された。
 キハ40-1795はキハ40-151からの改造車。エンジン換装による1700番台化からわずか数ヶ月だった。平成19年3月17日付けで廃車。
90 キハ40-2055
1983年(昭和58年)6月21日(火) 6時30分頃
国(九) 指宿枕崎線 喜入〜前之浜
不明
 枕崎発西鹿児島(現:鹿児島中央)行きの5両編成の上り普通列車722Dとして運用中、土砂崩れに乗り上げ1両目が脱線した。総雨量が300ミリを超える集中豪雨が発生していた。復旧時、無事だった4両は切り離して近くのトンネル内に退避させたが、土砂に乗り上げた先頭車は線路上への復帰が困難なため現地解体された。
 キハ40-2055は昭和55年3月22日に新潟鐵工所で新造。昭和58年7月30日廃車とわずか3年で鬼籍入りとなった。キハ40系列でJRに継承されなかった唯一の車両。
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91 キハ47-2106、キハ47-2124
1993年(平成5年)8月6日(金) 16時53分頃
鹿児島本線 竜ヶ水駅構内 (地図)
キハ200-1007と合わせて降車拒否した乗客3人が死亡、キハ200側の運転士が後に過労死。
 平成5年8月豪雨(8.6水害)の被災車。豪雨による土石流で竜ケ水駅の北側・南側共に土砂崩れし立ち往生した。この時に運転士と現場に居た警察官により列車を堤防替わりにして乗客約330人を避難誘導。その後列車に向かって土石流が発生、車両はキハ200-1007と共に押しつぶされて大破し、残骸の一部は錦江湾にまで流された。現在竜ヶ水駅には記念碑が立つ。
画像 画像(衝撃画像注意)
92 キハ48-502、キハ48-1512
2011年(平成23年)3月11日(金) 14時46分頃
石巻線 女川駅構内 (地図)
無し
 東日本大震災の被災車。小牛田発女川行き2両編成の普通列車1639Dとして運用、終点の女川駅に到着し停車中に地震に遭遇。その後女川駅ごと津波に押し流され脱線転覆。2両とも原型を留めないほどに押しつぶされて大破し、キハ48-502は200mほど離れた墓地まで流された。また、駅のすぐ横で「女川温泉ゆぽっぽ」として利用されていたキハ40-519の廃車体も津波で約200m流され大破した。
 キハ48の2両は6月に現地解体。
画像(衝撃画像注意):キハ48-1512 画像:キハ48-502 画像
93 キハ48-552、キハ48-1544
2011年(平成23年)3月11日(金) 14時46分頃
気仙沼線 最知〜松岩 (地図)
無し
 東日本大震災の被災車。気仙沼発小牛田行き2両編成の普通列車2492Dとして運用中に地震に遭遇し脱線。その後津波に押し流され脱線転覆。
 5月に塩釜港付近の被災自動車解体現場に陸送、解体された。
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94 キハ52-14
1977年(昭和52年)6月30日(木) 6時32分頃
国(東) 田沢湖線 赤渕〜田沢湖 大地沢信号所付近 (地図)
無し
 盛岡発大曲行き5両編成の823Dとして運用中、3両目だったキハ52-14の床下から出火。大地沢信号所に引き返して乗客61人を降車させ、車両を切り離して消火活動を行ったものの、全焼して約1時間後の7時35分頃に鎮火。
 キハ52-14は昭和53年1月17日付けで廃車。
95 キハ53-6
1978年(昭和53年)3月2日(木) 7時58分頃
国(西) 木次線 三井野原〜出雲坂根
乗客4人と乗員2人が軽傷
 木次発備後落合行き単行445Dとして運用中、雨と雪解け水により道床流出し線路が宙吊りになっていた築堤崩壊現場に突っ込み脱線。1回転して谷に約15メートル転落し、途中の雑木林に引っかかり停止したものの大破した。
 キハ53-6は昭和55年3月22日付けで廃車。代替としてはるばる東北からキハ52-128がツートンカラーのまま転属。転落した車体はその後10年以上放置された。鉄道ピクトリアルの1983年(昭和53年)6月号に写真が掲載された。
96 キハ54-520
2007年(平成19年)3月1日(木) 8時18分頃
石北本線 美幌〜緋牛内 第4基線道路踏切 (地図)
運転士が重傷、乗客1人が重傷、49人が軽傷。トレーラーの運転手も軽傷
 網走発北見行きの1両編成ワンマン普通列車4654Dとして運用中、漠然運転で踏切で停止しなかった丸太を満載した大型トレーラーに時速約60キロメートル程度の力行運転状態で衝突。列車は全軸が脱線し、運転台がめり込むように大破した。この日は沿線の高校の卒業式があり、高校生に多数のケガ人が出た。
 キハ54-520は花咲線ラッピング車だった。事故調査終了後に現地解体された。
画像(衝撃画像注意) 画像(衝撃画像注意)
97 キハ55-190
1972年(昭和47年)11月7日(火) 18時18分頃
国(九) 日田彦山線 彦山〜筑前岩屋
無し
 門司港発日田行き753Dとして5両編成で運用中、最後尾のキハ55-190から出火。4両目にも燃え移り2両が全焼した。原因はキハ55-190の第2エンジンで栓の緩みがあったか配管がひび割れて、燃料漏れを起こしたため。
 キハ55-190は昭和35年3月30日に新潟鐡工所で新造。昭和47年12月19日に廃車され、実働12年半だった。
98 キハ56-8
1980年(昭和55年)6月8日() 17時30分頃
国(北) 函館本線 江別〜豊幌 夕張川鉄橋右岸踏切 (地図)
無し
 釧路発札幌行の6両編成の急行「狩勝4号」の先頭部に回送車として連結して7両編成で走行中、踏切でエンストし立ち往生していたワゴン車と衝突。ワゴン車を巻き込み約150メートル先の夕張川の鉄橋上で停止したが、直後に先頭回送車の横でワゴン車が炎上し、列車にも延焼して先頭回送車が全焼、2両目も一部焼損した。先頭回送車には運転士1人しか乗車していなかったため乗客373人に怪我は無く運転手も無事、ワゴン車の5人も降りていたため無事。ワゴン車は近道しようとして踏切に差し掛かったが、枕木にタイヤが取られた上にエンスト。押し出そうとする間に踏切が鳴りはじめたため全員退避していた。ワゴン車の運転手が過失往来危険の現行犯で逮捕された。またキハ56は難燃性車両であったにも関わらず延焼したため、車両構造見直しのきっかけとなった。
 キハ56-8は昭和55年7月19日に廃車。
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99 キハ57-11
1984年(昭和59年)10月6日() 午前9時30分頃
国(四) 土讃本線(現:土讃線) 琴平〜塩入 真野踏切 (地図)
死者なし、負傷者数は不明
 高松発高知行きの下り急行土佐3号としてキハ57-11+キハ28-2475の2両編成で運用中、踏切内で脱輪し立ち往生していた木材運搬のトレーラーに衝突した。先頭のキハ57-11がトレーラーに乗り上げ持ち上がるように脱線・大破した。復旧の際には救援車のオエ61-18が使用された。事故後この踏切は大型車通行禁止になり、大型車が通行可能なバイパス道路が整備された。元プロ野球選手で当時徳島県立池田高等学校野球部の監督だった蔦文也氏が乗客として乗車していたらしい。
 キハ57-11は昭和60年2月7日付で廃車。
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100 キハ58-409、キハ58-1015、キハ28-2005、キハ28-2352
1985年(昭和60年)7月11日(木) 14時21分頃
国(西) 能登線(現:廃止部分) 古君〜鵜川
乗客7名が2両目の下敷きになり死亡、乗員3名乗客29名が負傷。
 能登線列車脱線事故の被災車。金沢発蛸島行き4両編成の下り急行能登路5号として運用中、盛土が進行方向左側の約750メートルに渡って崩壊し、線路が宙吊りになっている区間に時速約50キロメートルの力行運転状態で突入。前3両が約8メートル下の築堤下の水田に転落、最後尾車が約30度傾いて盛土上に残る形で脱線した。原因は水抜きパイプ等が整備されていない盛土が、6月22日から続いていた大雨が原因で崩落したため。この事故を受け、全国の盛土部分の整備と管理が強化された。
 4両とも同年10月1日付けで廃車。
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101 キハ58-666
1969年(昭和44年)12月19日(金) 15時40分頃
国(四) 高徳線 下浦駅構内 構内の下浦踏切
運転助士が死亡、運転士と乗客21人とダンプカー運転手と沿線住人1人の24人が重軽傷
 高知発小松行の急行よしの川4号として乗客85人を乗せて2両編成で運用中、下浦駅構内の踏切で立ち往生していたダンプカーに衝突。先頭車が脱線して線路脇の飲食店に突入し、店舗と隣の倉庫の2棟を全壊させた。ダンプカーも約10メートル引きずられた上車体が2つに裂かれて大破、駅ホームに打ち上げられた。列車の運転助士が衝撃で車外に投げ出されて殉職、運転士と乗客21人が重軽傷、ダンプカー運転手が重傷、飲食店の1人も軽傷を負った。ダンプカーが警報機を無視しして無理に横断しようとしたのが原因。同月9日に東武伊勢崎線で館林事故が起きた直後で、運輸省(現在の国土交通省)が踏切事故防止強化の通達を出した直後だった。
  キハ58-666は昭和40年11月20日に新潟鐡工所で新造。実働4年半で、昭和45年3月12日付けで高松で廃車。
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102 キハ58-1023
1991年(平成3年)5月14日(火) 10時35分頃
西 信楽高原鉄道信楽線 貴生川〜紫香楽宮跡 小野谷信号所付近 (地図)
キハ58の乗客30人と信楽側の乗客7人社員5人の42人が死亡、614人が重軽傷
 信楽高原鐵道列車正面衝突事故の被災車。京都発信楽行き3両編成の臨時快速501D世界陶芸祭しがらき号として716人が乗車して運用中、反対側から走行してきた信楽発貴生川行各駅停車534D(レールバス4両編成、乗客10人乗員5人)と正面衝突。キハ58は車体が折れ曲がって持ち上がり、レールバスは原型を留めないほどに大破。JRの列車は乗車率240%とすし詰めの満員だったため多くの死傷者が発生した。原因は双方ともにATSを無断で切り替え誤出発検知装置を過信して見切り発車したためで、安全軽視と厳しく批判された。JR側が小野谷信号場を通過し、単線区間のカーブの先から来た信楽の列車と衝突した。列車無線もJRと信楽で異なるため互いの通信には使用できなかった。事故現場は紫香楽宮跡駅から東に約200メートル、新名神高速信楽IC付近。事故を受け、JRと第三セクターの直通運転やレールバスの構造などが見直された。陶芸祭のために2億円かけて新設された小野谷信号場は廃止され信楽高原鉄道線は全区間1閉塞運転となった。陶芸祭も中止となった。
 JR車1両と信楽高原鉄道のレールバス2両が廃車。キハ58-1023の書類上廃車日は平成4年3月31日。
画像(衝撃画像注意) 画像
103 キハ58-1034
1973年(昭和48年)5月15日(火) 10時15分頃
国(海) 紀勢本線 佐奈〜栃原
列車の補助運転士が死亡、ダンプカーと運転手と列車の運転士が重傷、乗客約170人中65人が負傷
 名古屋発天王寺行きの下り急行紀州1号として5両編成で運用中、踏切でダンプカーと衝突。前2両が脱線した。
 踏切は列車からの見通しが悪い踏切で、ダンプカーは渡りきれると思い無謀横断していた。
  昭和42年4月20日付けで日本車両で新造。実働7年で昭和49年3月8日付けで美濃太田区で廃車。2ちゃんねるでも多気駅で前面がペシャンコになった状態での目撃証言あり。
画像(衝撃画像注意)
104 キロ59-508
1988年(昭和63年)3月30日() 18時5分頃
上越本線 越後中里〜岩原スキー場前 (地図)
無し
 アルカディア号火災事故(燃えるアルカディア)の被災車。高崎発見附行きの団体臨時列車「ちびっこ一人旅・アルカディア号で群馬サファリへ」として運用中、新清水トンネル通過直後に排気管が過熱しハイデッキ展望室部分から炎上、越後中里駅を通過後に緊急停車し、45分燃え続けて全焼した。乗客乗員は避難したため無事。原因は冬季の夜間アイドリングによる排気管の過熱と言われている。その後JR東日本ではDMH17エンジンは全て取り替えられた。
 アルカディアとして改造されて1年で廃車。
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105 キハ81-59、キハ82-902、キハ80-9、キハ80-76、キロ80-35、キシ80-4
1982年(昭和57年)6月11日(金) 13時25分頃
国(北) 石北本線 留辺蘂〜相ノ内(現:相内)
乗客1人が重傷、16人が軽傷。負傷者は全員食堂車の乗客
 札幌発網走行き9両編成の特急オホーツク1号として約180人を乗せて運用中、枕木の交換作業中の現場に進入した際に後ろ6両が脱線した。原因は事故現場で行われていた保線工事で、業者の手抜きで本来1本づつしか交換してはいけない枕木を1度に6本抜いていたこと。またこの日北見地方は最高気温が30度を超えて線路が張り出し、列車が遅れていたが、そのことが保線作業員に伝わっていなかった。5月28日の特急あずさ、6月7日の特急いなほ、6月10日の特急おおとりでも同様の保線絡みの事故が立て続けに発生していた。
 6両とも昭和57年7月6日付で廃車された。
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106 キハ85-107
1996年(平成8年)6月25日(火) 21時20分頃
高山本線 下呂〜焼石 (地図)
乗客乗員16人が負傷
 ワイドビューひだ脱線事故の被災車。名古屋発高山行きの5両編成特急ワイドビューひだ15号として乗客108名を乗せて運用中、三原トンネルの出口すぐでの地点で、約4メートル四方・約60トンの巨大な落石に衝突。前2両が右側に脱線して山林に突っ込んだ。先頭のキハ85-107が運転台付近を大きく損傷した。三原トンネルが補修工事中で本来なら時速75キロで走行するところを50キロの速度制限が掛かっていたため、山林に突っ込んだ地点で停止できた。もう10メートル進んでいれば激流の飛騨川へ転落する危険があった。事故当初の速報で、朝日テレビが「特急が川に転落して死者百数十名」と誤報。脱線事故現場は昭和41年8月18日に飛騨川バス転落事故が発生した現場に程近い対岸部。
 代替車両は続番のキハ85-119として新造。
画像(衝撃画像注意) 画像(衝撃画像注意)
107 キハ100-9、キハ100-12
2011年(平成23年)3月11日(金) 14時46分頃
山田線 津軽石駅構内 (地図)
無し
 東日本大震災の被災車両。花巻発釜石経由宮古行きの2両編成ワンマン列車の1647Dとして運用中、津軽石駅を発車しようとした所で被災。津波で押し流され脱線。車内も座席の高さくらいまで浸水した。
 同年7月15日〜16日に解体された。
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108 キハ100-30、キハ100-38
2011年(平成23年)3月11日(金) 14時46分頃
大船渡線 大船渡〜下船渡
無し
 東日本大震災の被災車両。盛発一ノ関行きの2両編成ワンマン338Dとして運用中に被災。津波に冠水したため廃車。
 同年7月24日から26日に掛けて現地で2つに切断された後陸送された。
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●108 キハ110-132
2015年(平成27年)12月11日(金) 14時46分頃
山田線 平津戸〜松草
乗客15人と運転士が負傷
 宮古発盛岡行き普通列車645Dとして単行で運用中、線路上に流れ込んでいた倒木や土砂に乗り上げて脱線した。法面が風化し危険だったため長らく作業できず、車両も脱線した状態のまま長らく放置された。平成29年5月に復旧作業が開始されたが、車両は損傷していることと、周辺の線路の一部が撤去されているため復旧を断念し、車体を切断して撤去した。キハ110-132の廃車は平成29年5月。
109 キハ130-5
1996年(平成8年)1月12日(金) 午前9時頃
日高本線 勇払〜浜厚真
乗客1名が火傷で重傷、乗客45名が打撲や火傷で軽傷。ダンプカーの運転手が大火傷で意識不明の重体。
 様似発苫小牧行きの普通列車として2両編成で運用中、踏切で土砂を積んだ大型ダンプカーと衝突。列車は脱線しなかったものの左前面が陥没しドアまでたわむほど大破。更にダンプカーが炎上して、列車の乗客にも火傷の被害が出た。事故現場は見通しの良い海岸沿いの原野だったが、当時踏切の前後の道路がアイスバーン状態になっていた。
 またこの事故から6年前の平成2年1月8日11時10分頃、鵡川発苫小牧行きの普通列車として運用中のキハ130-8が勇払-苫小牧の勇払沼ノ端踏切内で立ち往生していたタンクローリーに衝突、運転士が両足切断の重傷を負い乗客47名が負傷した事故が発生していた(車両は復旧)。これらの事故はJR北海道に大きなショックを与え、当時開発中だったキハ281以後JR北海道は積極的に高運転台車を多く採用するようになった。平成22年に函館本線で789系がダンプカーと衝突したときには、運転士は高運転台のおかげで生存し、その安全性が発揮されたといえる。
 キハ130-5は平成8年2月27日廃車、その後札幌市手稲区前田の空き地でキハ56などとともに一部切断された上で倉庫(ほぼ放置)されていたが平成20年11月撤去。
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110 キハ181-13、キハ181-35、キハ180-8
1975年(昭和50年)9月4日(木) 13時24分頃
国(東) 奥羽本線 秋田〜四ツ小屋
乗客9人と食堂車係員1人が軽傷
 11両編成の上野発秋田行きの特急つばさ2号として乗客約300人を乗せて運用、秋田駅を発車した直後の秋田運転区脇を時速約45キロメートルで走行中、3両目から11両目の9両が脱線した。原因は熱でレールが膨張していたこと。列車は慣らし運転として新設線路を走行していたが、旧線と新線の接続部に不備があった。
 車両は修理不可能なほどの損傷では無かったが、つばめが485系での電車化が予定されていたため修理せず廃車となった。キハ181-13は昭和44年11月24日落成、キハ181-35は昭和45年6月29日落成、キハ180-8は昭和44年11月25日落成と全車経年6年程度だったが、昭和51年1月17日付けで尾久客車区で廃車。
111 キハ182-9
2004年(平成16年)8月頃
札幌運転所構内 (地図)
不明
 入換中に検車庫の門にぶつかり妻面を損傷。そのまま廃車となった。
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112 キハ183-502、キハ184-11、キハ182-33
1994年(平成6年)2月22日(火) 17時45分頃
根室本線 新冠〜落合 西新得信号場〜広内信号所 広内信号所付近(地図)
乗客1名が重傷、乗客6名と運転士が軽傷
 特急おおぞら脱線事故の被災車。釧路発札幌行きの特急おおぞら10号として7両編成で運用、時速約50キロメートルで徐行運転中、南側のオダッシュ山方向からの強風に煽られて前3両が脱線、先頭車が横転し盛土下の雪原に転落した。原因は現場付近の風速計から釧路の運輸指令への回線が通じないのを前年8月から放置し状況が把握できない状態のまま徐行運転を行ったため。北海道運輸局の局長から口頭で警告を受けた。また、同日に三陸鉄道で同様に強風による横転事故が発生している。
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113 キハ200-1007
1993年(平成5年)8月6日(金) 16時53分頃
鹿児島本線 竜ヶ水駅構内 (地図)
降車を拒否した乗客3人が死亡。後に運転士が過労死。
 平成5年8月豪雨(8.6水害)の被災車。西鹿児島(現:鹿児島中央)行き普通列車として運用されていたが、竜ケ水駅南側で発生した土砂崩れのため立ち往生した。運転指令に引き返しの許可を求めたが、許可が降りる前に駅の北側でも土砂崩れが発生。この時に運転士の機転と現場に居た警察官により、列車を堤防替わりにして当列車と対向列車(キハ47-2106+キハ47-2124)の乗客をあわせた計約330人が避難誘導された。その後列車に向かって土石流が発生し、車両は押し流されて大破した。この話は「プロジェクトX」にも取り上げられた。
 キハ200-1007はキハ40-2106・2124と共に同年8月19日に廃車。新造9ヶ月で廃車と非常に短命だった。代替はキハ200-5007。
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114 キハ200-1011
2003年(平成15年)3月31日(月) 23時38分頃
大村線 小串郷〜川棚 豊姫踏切 (地図)
運転士と乗客3人が軽傷
 長崎発佐世保行きの4両編成の普通列車250Dとして運用中、踏切で脱輪して停止している4トントラックに衝突し脱線。トラックは幅が2.3メートルあったにも関わらず1.8メートル制限の踏切に進入したため脱輪した。キハ200-1011は前2軸の脱線のほか前面ガラス破損、スカート湾曲などで修理可能な損傷ではあったが、事故現場が盛土上で、左右は約10メートルの高低差の上にぬかるんだ土地だったため、復旧のための重機が使用できなかった。事故状況から牽引も出来ず、ロープを巻くことも出来ないためヘリコプターでのつり上げも断念され、パワーショベルと人力によって盛土の下に転落させられた後に現地解体。
 キハ200-1011は平成6年に新製。事故当日付けで車籍抹消され、実働9年だった。代替車はキハ200-5011。
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115 キハ283-9、キハ282-101、キハ282-1、キロ282-7、キハ282-3001、キハ283-1
2011年(平成23年)5月27日(金) 21時56分頃
石勝線 新夕張〜占冠 清風山信号場構内 (地図)
乗客78名と車掌が負傷
 石勝線特急列車脱線火災事故の被災車。釧路発札幌行き上り特急4014D・スーパーおおぞら14号として6両編成で運用、時速約120キロメートルで走行中に、清風山信号場構内の第1ニニウトンネル付近で車掌が異音を感知、運転士に連絡し非常停止手配を取った。第1ニニウトンネル内で停車したところ5号車(キハ282-3001)から煙が上がり、列車は自走不能となった。乗客乗員は全員避難したが乗客34名乗員2名の36名が病院へ搬送された。車両は6両とも翌朝まで燃え続けて全焼、内部が焼け爛れ構体全体が中央に湾曲するなどした。原因は整備不良により4両目(キロ282-7)の減速機を支える吊りピンが脱落し、推進軸と自在継手が脱落したこと。それらが分岐機のリードレールに接触して4両目が脱線、その際に落下した4両目の減速機の歯車が5両目の台車に接触して5両目も脱線した。4両目は次の分岐機で復線した。また、4両目の減速機の歯車が6両目の燃料タンクを破損させディーゼル燃料が漏れたことで火災が発生した。JR北海道はこの事故以後も事故を多発させたり、労働協定違反や車両整備の一部を実施しないなどインシデントや不祥事が多数発覚し、事業改善命令を受けた。平成23年9月には代表取締役社長が行方不明になり、後に遺体で発見されるなど企業統治に不安がみられる。
 キハ282-1、キハ283-1、キハ282-3001は平成8年、キハ282-9とキハ282-3001は平成10年、キロ282-7は平成13年に全て富士重工業で新造、全車平成23年6月30日付けで廃車。その後車両不足解消のために平成25年6月にキハ261-1000を6両新造した。事故現場付近は深い山奥で湾曲した車両の回送は困難なため切断して苗穂工場へ輸送。
画像(衝撃画像注意) 画像(衝撃画像注意) 画像(衝撃画像注意) 状況説明
116 2207
2010年(平成22年)上半期
不明
不明
 何かしらの事故に遭遇した。多度津工場に入場し、そのまま部品取り車となっているらしい。1位ドアには鋭い傷と塗装剥れがある。平成22年2月16日した予讃線みの駅で1034Dで発生した往来妨害事案での被災車?平成25年12月時点では車籍は残存している。
117 2008、2218
2005年(平成17年)3月2日(水) 20時41分頃
土佐くろしお鉄道宿毛線 宿毛駅構内 (地図)
運転士が死亡、乗客10人と車掌が負傷
 土佐くろしお鉄道宿毛駅衝突事故の被災車。岡山発宿毛行きの3両編成の47D特急南風17号として運用中、櫛形ホームの宿毛駅に時速約113キロメートルで突入した。列車は車止めを粉砕しホームを破壊、奥にあったエレベーターを押しつぶした。列車は前2両が脱線、1両目が2両目に押しつぶされて大破し床下機器の一部を焼損した。宿毛駅が損傷し11月1日まで営業を停止した。原因は前日までインフルエンザで欠勤していた運転士の体調が急変したと推定されているが不明。過走防止用ATSの整備が進められた。
 2008は平成3年10月、2218は平成4年6月に富士重工で製造。同年3月31日に廃車となり、2218は13年に満たなかった。
画像(衝撃画像注意) 画像(衝撃画像注意) 画像(衝撃画像注意)


客車


118 スハネフ14-2
1992年(平成4年)4月8日(水) 0時0分頃
西 JR神戸線(山陽本線) 塩屋〜須磨 (地図)
さくらと普通電車の乗客20人が負傷
 寝台特急さくらトレーラー衝突事故の被災車。線路から一段上を並行する国道2号で、無理にUターンしようとした自動車を大型トレーラーが急ハンドルで避けたため制御不能となり、トレーラーが線路に転落する交通事故が発生した。その直後に機関車+客車12両編成の東京発長崎・佐世保行きの寝台特急1レ「さくら」が時速約100キロメートルで衝突。機関車(EF66-55)が脱線転覆、客車5両が脱線した。トレーラーヘッドが機関車の横で炎上し、トレーラーの積荷であった鋼材の一部が客車に刺さった。更に後続の西明石行きの7両編成下り普通列車(クハ200-121以下201系7連・C19編成)が脱線した客車に衝突し、クハ200-121が脱線した。幸いにも人的被害は少なく済んだが、復旧作業の為に大動脈のJR神戸線と国道2号が20時間以上通行止めになり、JR神戸線では459本が運休、約38万人に影響が出た。トレーラー運転手2名は執行猶予付きの禁錮刑を言い渡され、JR各社からおよそ2億円にのぼる損害賠償を請求された。
 機関車の次位のスハネフ14-2が大破して廃車。またEF66-55は修理され運用に復帰したが、蛇行動を起こすなど不具合が多く、後に優先的に廃車された。
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119 スハネフ14-102
1982年(昭和57年)3月15日(月) 2時16分頃
国(海) 関西本線 名古屋駅構内 (地図)
乗客14人と機関士が負傷
 寝台特急機関車衝突事故の被災車。東京発紀伊勝浦行きの6両編成の寝台特急「紀伊」として運用中、名古屋駅10番のりばで寝台特急出雲3号と分離し、出雲が発車した後に機関車を付け替える際、連結しようとしたディーゼル機関車(DD51-717)が時速約35キロメートルで衝突、客車3両が脱線した。原因は機関士が飲酒したことによる居眠り運転、速度超過、信号無視。機関士は14日21時56分から15日1時44分までの仮眠時間の間にビール1本と日本酒360ミリリットルを飲み、始業点呼にも遅刻していた。この頃の国鉄は職員のたるみが原因の事故を多発しており、世間からモラルが問われていた。機関士が業務上過失致傷、過失往来危険の疑いで逮捕された。
 スハネフ14-102は昭和57年4月27日付けで廃車、DD51-717も廃車。
画像(衝撃画像注意)
120 スロフ14-801、オロ14-801、オロ14-802、オロ14-803、オロ14-804、オロ14-805、スロフ14-802
1986年(昭和61年)12月28日() 13時25分頃
国(西) 山陰本線 鎧〜餘部 餘部鉄橋上 (地図)
車掌と工場従業員5人が死亡、車内販売員と工場従業員5人が重軽傷
 餘部鉄橋事故の被災車。事故に遭った団体列車用客車「みやび」は、176人の団体客を乗せた谷川発香住行きの団体臨時列車「山陰お買い物ツアー」号としての運用を終え、香住発浜坂行きの回送列車として走行していた。当時の餘部鉄橋では風速25mで運転中止と規定されていたが、不手際により強風の中運行を続けていた。時速約48キロメートルで鉄橋を通過中に、北側(海側)から風速33mの突風を受け、重量のある機関車(DD51-1187)を除いた客車全7両が、軽量な中間車から順に南側(山側)約41m下の集落に台車を残して転落し、橋の下に有ったカニカマ工場や民家に直撃した。更に復旧作業中に発火した。運転中止とならなかった原因は、運転指令所が強風にも関わらず様子見をして、停止操作をしなかったこと。運転指令所では風速25メートルを超えると警報音が鳴るようになっているが、指令所では具体的な風速が分からないため香住駅に問い合わせたが、最高25メートル平均20メートル程度との回答だった。国鉄民営化直前で再雇用に不利な運休を避けようとする空気が職場にあった。機関士は通常時速60キロメートルで走行するところを48キロメートルまで減速していたが、観測史上4番目の突風のため事故を防げなかった。また、餘部鉄橋の老朽化による歪みも遠因となった。この事故の後、餘部鉄橋では両側に柵を設置の上、時速25キロメートル制限と風速20mで運転中止にすることになり、運休が続出。平成22年8月にPCラーメン橋の「余部橋梁」に架け換えられた。
客車は翌年1月7日までに現地解体。
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121 オシ17-2018
1972年(昭和47年)11月6日(月) 1時14分頃
国(西) 北陸本線 敦賀〜南今庄 北陸トンネル内 (地図)
機関士1人と乗客30人が死亡、乗客乗員714人が負傷。
 北陸トンネル火災事故の被災車。大阪発青森行きの機関車+客車15両の501レ寝台急行きたぐにとして運用中、11号車の食堂車の喫煙室付近から発火。マニュアル通りトンネル内に非常停止し消火活動を行った。しかし消火出来ないと判断し車両の切り離しを行おうとしたが、煙や火勢が強く、暗いトンネル内であったため難航しているうちに、架線がショートして停電したため走行できなくなった。約14キロメートルの長大トンネルの中央付近に停車したため、徒歩での避難や外からの消火・救援活動も困難であり、被害が拡大した。発火原因は食堂車のキッチンや喫煙室であることではなく、電気暖房装置の老朽化と言われている。この事故から3年前の昭和44年12月6日 6時20分頃に、青森発大阪行きの寝台特急日本海が北陸トンネル通過中に機関車次位の電源車から出火する事故があった。この時の機関士はトンネル内で停止すると危険だという、当時の運転規則に逆らった独自の判断でトンネルを脱出してから停止し、電源車のみの焼損で済んだ。しかし国鉄は運転規則違反とし機関士を処分しており、今回の事故を防げなかった。この事故の後に機関士は処分撤回された。車両の難燃化が進められた。トンネル内で火災が発生した場合、全速力で抜けきってから停車するようにマニュアルを改訂、安全設備の整備が進んだ。
事故車は裁判の物的証拠となったため廃車は9年後の昭和56年。
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122 オハネフ25-18
1976年(昭和51年)
国(九) 鹿児島本線 川尻駅構内 (地図)
不明
 運転操作ミスによりDE10-1190に衝突され、車端部が圧壊。
 オハネフ25-18は昭和51年2月26日付けで、DE10-1190と共に廃車廃車。新製から11ヶ月程度 だった。オハネフ25-0番台は製造は終了していたが、代替に1両を追加生産。続番のオハネフ25-47として落成した。
123 オハネフ25-104
1984年(昭和59年)10月19日(金) 1時48分頃
国(西) 山陽本線 西明石駅構内 (地図)
32人が負傷
 西明石駅列車脱線事故の被災車。宮崎発東京行きの機関車+客車14両の寝台特急富士として運用、西明石駅を通過中に最後尾の電源車以外の客車13両が脱線。機関車次位の客車が西明石駅のホームに激突して、B寝台通路側の車体下部を大きく損傷。原因は速度超過のまま分岐器に突入したこと。当時西明石駅では、工事のため通常の複々線の外側の列車線ではなく内側の電車線を通過する、と進路変更され時速60キロメートルの速度制限が掛かっていた。しかし機関士が飲酒していたため、点呼時のこの通達を失念して時速約100キロメートルで走行していた。点呼を同時に受けた同乗の機関助士が、機関士の飲酒運転や冒進を止めなかったことも問題視された。更に、後続の寝台特急さくらの機関士も、先輩である寝台特急富士の機関士の誘いを断れず飲酒していたことが発覚。国鉄の荒れた内部規律を晒すことになり社会から強く避難された。2年前の寝台特急紀伊の事故でモラル改善を進めていただけあって、内部の落胆も大きかった。この事故をきっかけにトランスポンダ式ATS-Pが開発された。当初は西明石駅構内で使われていただけだったが、東中野事故・北殿駅事故以後急速に普及した。
 事故車は昭和60年1月20日付けで廃車。
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124 オハフ51-5002
1999年(平成11年)7月27日(火) 13時10分頃
津軽海峡線 木古内〜札苅 (地図)
乗客2名が軽傷
 青森発函館行きの快速海峡5号として機関車+客車12両編成で運用中、最後尾の車両が脱線。後部台車が外れて現場に残したまま、約100メートル引きづられ架線柱数本と接触した。原因はレールが熱膨張してズレていたことで、停止した地点から約240メートル手前の橋梁上でレールが約235ミリずれ、脱線痕が見られた。この日、木古内駅付近の線路は約40度まで過熱されていた。
 オハフ51-5002は平成11年中に廃車となった。
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貨車


125 コキ50167、コキ50326、コキ50755、コキ50804、コキ50843、コキ51061、コキ51583、コキ51627、コキ51695、コキ51700、コキ51775、コキ52110、コキ52239、コキ52844、コキ52980、コキ53002、コキ53185、コキ53314、コキ53320、コキ53409
1996年(平成8年)12月4日(水) 5時49分頃
(北) 函館本線 大沼〜仁山 (地図)
無し
 函館本線大沼脱線転覆事故の被災車。機関車+コンテナ貨車20両編成の札幌貨物ターミナル発梅田貨物行きの列車として運用中、時速60キロメートル制限の半径約300mカーブに時速約115キロメートルで突入、コンテナ貨車20両全車が脱線転覆し、盛土下に約20メートル転落した。原因は運転士の居眠り運転。事情聴取で運転士は「運転中眠たかった。後ろからドスンと押される感じがして、気付いたら後ろの貨車が無くなっていた。」と供述した。裁判では病気の孫娘のことが心配で、その心労から熟睡できなかったことが証言されている。現場付近は昭和51年、昭和63年にも速度超過が原因の脱線転覆事故が起きており、この事故の後JR北海道により速度照査装置が設置された。運転士は諭旨解雇となり、その後の裁判で禁固1年6ヶ月、執行猶予3年の判決を受けた。JR貨物によると、この事故による損害は約10億円。
126 コキ51274、コキ51926、コキ52023、コキ52225、コキ53296
2011年(平成23年)3月11日(金) 14時46分頃
(東) 仙石線 石巻港駅構内 (地図)
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 東日本大震災の被災車。津波の直撃を受け流される。
 同年5月頃に現地解体。他にも多数廃車が発生している。とりあえず車番が分かった分のみ。東日本大震災で貨車は178両、コンテナ約1500個が被災した。
127 コキ52170、コキ53019、コキ50679、コキ50052、コキ53021、コキ52346、コキ51331、コキ51667、コキ51348、コキ51621、コキ50866、コキ52841、コキ50652、コキ50322、コキ51717、コキ51710、コキ51543、コキ52641、コキ52370、コキ52961
2011年(平成23年)3月11日(金) 14時46分頃
(東) 常磐線 浜吉田〜山下 南泥沼踏切付近 (地図)
無し
 東日本大震災の被災車。札幌貨物タ発隅田川行き高速貨物92レとして機関車(ED75-1039)+コンテナ車20両の編成で運用していたが、地震を受けて停車。そのまま沿岸部で約6メートルだった津波の直撃を受け流される。機関車は流されずレール上にとどまり、車内にとどまっていた機関士は無事だった。
この列車の機関車・貨車は全て廃車となった。
画像 上からコキ53019(機関車を含めて3両目)、コキ50052(5両目)、コキ50679(4両目)
128 コキ57102、コキ57105、コキ57000、コキ57112、コキ74114
1988年(昭和63年)12月13日(火) 17時5分頃
(北) 函館本線 東山〜姫川 幾良踏切付近 (地図)
無し
 函館本線高速貨物列車過速度転覆事故(姫川事故)の被災車。DD51+コンテナ貨車21両編成の隅田川発札幌貨物ターミナル行き高速コンテナ列車3065レとして運用中、時速60キロメートル制限の半径約300mカーブに推定時速約100キロメートルで突入、コンテナ貨車21両中19両が脱線し一部が転覆した。機関車だけが分離され、その後CTCで事故現場の在線表示が消えないため抑止がかけられた約16キロメートル先の石谷駅まで走行した。機関士は停止後に初めて単機になっていることに気付いた。原因は機関士の大量飲酒による居眠り運転。事故前日から勤務前までにビールを約2リットル飲んでいた。現場付近は昭和51年にも、速度超過が原因の脱線転覆事故が起きているが、昭和63年のこの事故当時は貨物列車の事故と軽視されたため、速度照査装置は取り付けられなかった。後の平成8年にも速度超過による脱線転覆事故が発生する。
 上記の5両は車両番号が分かった分のみ。コキ57102〜コキ74114は1〜5両目だった。
129 コキ104-1675
1996年(平成9年)8月12日(火) 23時18分頃
(海) 東海道本線 沼津〜片浜栄昌寺踏切 (地図)
普通列車の乗客43名が負傷
 片浜列車追突事故の被災車。EF65-1139牽引、コンテナ車17両編成の泉発百済行き貨物第67列車の最後尾として運用、踏切の非常停止ボタン扱いを受けて停車中、無閉塞運転をしてきた後続の三島発静岡行き下り普通列車839M(クハ111-549以下4両編成)のブレーキが間に合わず追突。衝撃でコンテナ緊迫装置が破損しコンテナ2個が民家のすぐ近くに転がり落ちた。
 最後尾だったコキ104-1675は復旧作業時に半分に切断された。平成6年製造だったが、平成9年9月付けでコキ104初の廃車となった。
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130 コキ200-83、コキ200-48
2011年(平成23年)3月10日(木) 12時25分頃
(東) 成田線 久住〜滑川 滑川駅手前のカーブ (地図)
無し
 東京貨物ターミナル発鹿島サッカースタジアム行きの10両編成の貨物列車73レ(EF65-1060牽引+貨車9両)として運用中、後ろから2両目のコキ200-83が上下線を塞ぐ形で横転、最後尾のコキ200-48も上下線を塞ぐ形で脱線。付近の枯れ草に引火し1500平方メートルを焼いたが、約30分後に消防隊に消し止められた。2両の貨車は空の液化酸化エチレンの30ftタンクコンテナを2個づつ積載していた。原因は軸バネが経年劣化で固くなって、台車のレールへの追従性が低下していたため。横転地点の約2キロメートル手前から脱線痕があったが、現場の半径406メートルのカーブでついに転覆した。
 2両とも平成24年に廃車。
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131 タキ3043、タキ3084、タキ3085、タキ23119
1967年(昭和42年)8月8日(火) 1時45分頃
国(東) 山手線 新宿駅構内 (地図)
不明
 米軍燃料輸送列車事故の被災車。ジェット燃料を満載した浜川崎発立川行きの機関車+タンク車18両の米軍燃料輸送列車2471レとして運用中、EF10-40+石灰石を満載したホッパ車20両の貨物列車2470レが停止信号を冒進し約10キロメートル/hで3両目タキ3085の側面に衝突。4両目・5両目が横転し、航空燃料が約72トン漏れて3〜6両目までが炎上した。周辺約300メートルは火の海となり、30メートルもの火柱が上がった。3時20分ごろに鎮火したが、復旧は翌日午前4時過ぎとなり、丸1日中央線が停止。約1,100本が運休し約200万人に影響が出た。ATS全線整備後に発生したATSの機能不足による事故。この事故をきっかけに、ATSの誤出発防止装置(1度作動し確認扱いした後、再度停止信号を超えた際にキンコン音が鳴る。この時は非常停止機能はない。)が整備された。非常停止機能が付加されたのは平成元年4月13日の飯田線北殿駅での正面衝突事故以降。
 タキ3085(米軍所有)が3両目、タキ23119(日本陸運産業所有)が4両目、タキ3084(米軍所有)が5両目、タキ3043(国鉄所有)が6両目。タキ3043が昭和42年12月に、他3両が同年11月に廃車。私有貨車の事故破損は金銭による賠償が通例だが、米軍所有車の賠償はタキ3047・タキ3049の現車譲渡と言う異例的処置が取られた。
132 タキ1000-4、タキ1000-382、タキ1000-392、タキ1000-485、タキ1000-491、タキ1000-514、タキ1000-515、タキ1000-516、タキ1000-518、タキ1000-520、タキ1000-521、タキ1000-522、タキ1000-523、タキ1000-525、タキ1000-528、タキ1000-529、タキ1000-530、タキ1000-534、タキ1000-535、タキ1000-537、タキ1000-542、タキ1000-543、タキ1000-544、タキ1000-545、タキ1000-546、タキ1000-547、タキ1000-548、タキ1000-549、タキ1000-551、タキ1000-552、タキ1000-555、タキ1000-556、タキ1000-634、タキ1000-635、タキ1000-637、タキ1000-640、タキ1000-642、タキ1000-655、タキ1000-656、タキ1000-673、タキ1000-773、タキ1000-777
2011年(平成23年)3月11日(金) 14時46分頃
(東) 仙台北港駅構内など
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 東日本大震災の被災車。津波に流されるなどした。
 貨車所有者は4, 485, 491, 514-516, 518, 520-523, 525, 528-530, 534-535, 537, 542-549, 551-552, 555-556, 634-635, 637, 640, 642, 773, 777が日本石油輸送、382, 392, 655-656, 673が日本オイルターミナル。常備駅では382, 392, 514-516, 518, 520-523, 525, 528-530, 534-535, 537, 542-549, 551-552, 555-556, 634-635, 637, 640, 642が仙台北港、4, 655-656が郡山、673が宇都宮ターミナル、485, 491, 773, 777が根岸。新製は382, 392が平成10年、485, 491が平成12年、514-516, 518, 520-523, 525, 528-530, 534-535, 537, 542-549, 551-552, 555-556が平成13年、634-635, 637, 640, 642, 655-666が平成16年、673が平成17年、773, 777が平成18年。
画像 画像
133 チ1185 他、チ1000 3両、チキ5200 2両、チキ6000 22両、チキ7000 2両
2011年(平成23年)3月11日(金) 14時46分頃
仙台港駅構内など
-
 東日本大震災の被災車。津波に流されるなどした。
 全て平成23年3月12日付けで廃車。仙台所属のチ1000、チキ5200、チキ7000は全車両が、チキ6000は40両中22両が被災廃車となった。チキが不足したためJR西日本からチキ6000を6両購入した。
画像 画像 画像


電気機関車


134 EF10-40
1967年(昭和42年)8月8日(火) 1時45分頃
国(東) 山手線 新宿駅構内 (地図)
不明
 米軍燃料輸送列車事故の被災車。EF10-38が牽引するジェット燃料を積載したタンク車18両の米軍燃料輸送列車2471レの3両目(タキ3043)に、EF10-40が牽引するホッパ車20両編成の貨物列車2470レが衝突。2471レのタンク車の3〜6両目が脱線し漏れた燃料に着火、炎上し機関車にも延焼した。原因はEF10-40側の運転士のぼんやりミスによる信号冒進とATSの不適切な扱い。ATSのキンコン音が停止しても鳴り続けるのはこの事故の教訓から(詳細はタキ3043の項目参照)。
 タキ3043などタンク車4両と共に廃車。
画像(衝撃画像注意)
135 EF62-12、EF62-35、EF63-5、EF63-9
1975年(昭和50年)10月28日(火) 6時16分頃
国(東) 信越本線(現:廃線) 軽井沢〜横川 (地図)
乗務員3人が重軽傷
 信越線機関車転落事故の被災車。軽井沢発横川行き上り回送列車単5462レとして4両編成で走行中、ブレーキが効かなくなった。信越線上り線第一トンネル内で暴走し、出口付近で脱線した後転覆転落した。現場は碓氷峠で最大66.7‰の急勾配、R350の右側急カーブ。過速度検知装置が故障したため、大幅に速度超過したのが原因。
 4両とも事故現場で解体。代替に製造されたのがEF63-24, 25。
画像
136 EF64-46
不明
(東) 新鶴見機関区構内 (地図)
不明
 機関区内での入替作業中にEF65-1071に衝突。立川側の連結器を破損し回送できなくなったため機関区内でそのまま留置。長い間留置された後平成22年4月に解体された。
137 EF64-65
2004年(平成16年)11月10日(水) 15時20分頃
(海) 中央本線 南木曽駅付近
不明
 稲沢貨物ターミナル発南松本行きの石油輸送タンク車専用貨物列車5875レとして運用中、坂下駅付近で不具合が発生。その後機械室で火が上がり、南木曽駅で緊急停車し貨車を切り離した上で化学消防車による消火作業を行った。
 修理不能となり廃車。大宮車両所に回送されたのち解体。
138 EF64-1007
2011年(平成23年)5月
(東) 新鶴見機関区構内 (地図)
不明
 入換作業中に速度の出し過ぎからEH500と衝突。ジャンパー栓周りと連結器周りを破損。
 費用面の都合から修理せずに廃車となった。平成23年6月4日に新鶴見から稲沢へ無動力回送された。
139 EF64-1029
2003年(平成15年)?
(東) 不明
不明
 踏切事故に遭遇。それ以後故障が多発するようになり、当時機関車が足りていたため修理せず長岡運転所での留置を経て廃車。
 平成15年8月29日付けでEF64-1000番台初の廃車となる。
140 EF65-7
1978年(昭和53年)6月1日(木) 1時47分頃
国(西) 吹田操車場構内 (千里丘〜岸辺) (地図)
2人が負傷
 稲沢発岡山行き貨物列車として機関車+貨車25両で運用中、千里丘駅から西へ約120メートルのポイント上で入換用のDD13と正面衝突。EF65-7は横転大破した。原因はDL側の機関士が赤信号に気づき遅れたという誘導ミスで、DLも大破。復旧する1日22時頃まで米原〜西明石が全面ストップし、約75万人に影響が出た。
 昭和40年2月19日付けで新製。昭和53年6月30日付けで経年13年で廃車。
画像
141 EF65-9
不明
(海) 近江長岡駅構内 (地図)
不明
 近江長岡駅付近を走行中に車軸の異常発熱が発生。そのまま近江長岡駅ヤード内に留置されたが、移動が不能と判断されたため廃車されヤード内で解体された。
 EF65-9は国鉄民営化時に1度廃車されたが、平成元年にJR貨物に車籍復活した機関車。茶色1色に塗装されていた。平成6年9月9日付けで廃車。
142 EF65-104
2008年(平成20年)10月頃?
(西) 姫路貨物駅構内 (地図)
不明
 72レとして運用中、姫路貨物駅構内で大型フォークリフトと接触事故を起こし2エンド側のスカート周りを破損した。広島車両所に送られたが、修理されず平成22年の広島貨物祭の後に廃車。
143 EF65-109
1986年(昭和61年)2月
国(東) 横浜羽沢貨物駅構内 (地図)
無し
 手ブレーキの掛け方が甘かったため、わずかな傾斜のある高架上で自然に転がりだし車止めに衝突。壁を突き破り前部を高架橋から転落し前面を圧壊、後部は高架上に残り地面に斜めに突き刺さる形で転落した。
 昭和61年2月7日付けで稲沢機関区で廃車
画像
144 EF65-1012
2006年(平成18年)6月28日(水) 15時50分頃
(西) 幡生駅構内 (地図)
無し
 JR西日本所属の幡生駅係員が信号扱い所に対しポイントの切り替えを行う指示をしていなかったという誘導ミスにより、入換中にポイントで乗り上げて4軸が脱線、機関士1人のみが乗車していたがけがは無かった。
 台車・台枠が大きく歪んだため廃車。復旧の際にクレーンで釣り上げた時の傷も大きく車体に残っていた。廃車日は平成19年6月1日付け。
145 EF65-1071
不明
(東) 新鶴見機関区内 (地図)
不明
 EF64-46に衝突され連結器やスカート周りを失う破損。修理しないまま保留車となり、後に余剰と言う事で廃車。
 平成20年3月31日付で廃車。
146 ED75-104
1990年(平成2年)7月22日(
東) 東北本線(現:青い森鉄道線) 剣吉駅付近
不明
 踏切事故による廃車。
 平成4年5月29日付けで廃車。
147 ED75-127
1994年(平成6年)12月7日(水) 7時35分頃
(東) 東北本線(現:IGRいわて銀河鉄道線) 滝沢駅構内 (地図)
無し
 滝沢駅列車脱線衝突事故の被災車。梶ヶ谷貨物ターミナル発札幌貨物ターミナル行きの貨物列車(機関車重連)として運用中、横取装置に乗りあげて脱線し本線を支障していた普通列車(ED75-716+50系客車4両)に衝突。側面をえぐり取られるように損傷し大破。
 ED75-127は平成10年11月19日付けで廃車。
148 ED75-716
1994年(平成6年)12月7日(水) 7時35分頃
東北本線(現:IGRいわて銀河鉄道線) 滝沢駅構内 (地図)
無し
 滝沢駅列車脱線衝突事故の被災車。ED75+50系客車4両による八戸発盛岡行き普通522列車として運用中、滝沢駅から約100メートルで横取装置に乗りあげて機関車と客車前2両が脱線、対向線路を支障したところへ対向の貨物列車が衝突。原因は前日にマルチプルタイタンパーが同駅構内で作業した後に簡易分岐器である横取装置を外し忘れたため。
 ED75-716は平成8年3月29日付けで廃車。
149 ED75-736
1974年(昭和49年)7月10日(水) 2時42分頃
国(東) 羽越本線 西目〜羽後本荘 船岡トンネル (地図)
機関士が死亡
 八戸貨物発百済行き臨時特急コンテナ貨物列車8090レとしてED75-736+ED75-732+貨車14両で運用中、台風8号による豪雨で発生した土砂崩れに乗り上げ機関車2機とコンテナ貨車4両が脱線。先頭のED75-736は線路から逸れて船岡トンネルの入り口横に衝突したが勢いは落ちずトンネルに突入、左右の壁にぶつかりながら約50メートル暴走した。衝突した勢いで機関室が押しつぶされ、トンネル壁と機関車に挟まれ機関士が殉職した。コンテナ貨車はトンネル入口のコンクリート壁に叩き付けられてその場で大破。土砂崩れは約250立方メートルと大規模で、約21メートルに渡って線路上に埋めていた。
 昭和47年3月9日に東芝で新製、昭和49年8月12日付けで車歴2年で廃車。補機として連結されていたED75-732は復旧。
150 ED75-1002
2003年(平成15年)7月8日(火) 8時41分頃
(東) 東北本線 新白河駅付近 (地図)
不明
 3083列車として運用中、新白河駅の上り寄り踏切で自動車と衝突する事故に遭遇した。
 その後仙台機関区に入場したが修理せずに平成17年5月27日に無動力で廃車回送された。平成18年に車籍抹消。
画像 画像
151 ED75-1003
1983年(昭和58年)5月30日(月) 6時5分頃
国(東) 東北本線(現:IGRいわて銀河鉄道線) 北福岡駅(現:二戸駅) (地図)
機関士と駅操車係の2人が重傷、トレーラー運転手が軽傷。
 隅田川発札幌貨物ターミナル行き、機関車+貨車19両の貨物列車として運用中、北福岡駅すぐの踏切でラワン材を積載した大型トレーラーと衝突。機関車は前面がぺしゃんこになり、トレーラーと共に大破した。この時散乱したラワン材が北福岡駅の駅操車係員を直撃した。事故原因は、駅構内での入替中に踏切が作動したにもかかわらずトレーラーが踏切内に残ったこと。
 ED75-1003は同年11月10日付けで廃車。
152 ED75-1012
2007年(平成19年)2月25日(
(東) 東北本線 黒磯駅付近 (地図)
不明
 変圧器が故障し、PCBを含有する人体に危険な腐食性の機械油が流出した。応急処置として故障地点から少々移動した引上線で、ビニールシートなどを使用して油の流出を最低限に抑える処置を施した。様子がおかしいと気付いた鉄道ファンにも「安全と健康のために車両に近づいたり触れたりしないように」と要請する騒ぎになった。
 同年6月12日にEF65に牽引されて大宮工場に入場、修理せずに同年11月7日付けで廃車。
153 ED75-1014、ED75-1032
1988年(昭和63年)8月29日(月) 19時12分頃
(東) 東北本線 六原〜北上 (地図)
無し
 隅田川発札幌貨物ターミナル行貨物列車として運用中、六原〜北上の大沢橋梁付近で豪雨による路盤流失区間に突入し脱線転覆。
 2両とも昭和63年11月2日付けで廃車。
画像
154 ED75-1025
1978年(昭和53年)?
国(東) 東北本線 塩釜〜松島
機関士が負傷
 上り列車として運用中に、土砂崩れに乗り上げ脱線転覆した。機関士が負傷しながらも列車防護を行い、同じく崩れた下りの路線に列車が衝突せずに済んだ美談が「旅と鉄道」に掲載された。
 ED75-1025は昭和53年12月4日付で廃車。
155 ED75-1039
2011年(平成23年)3月11日(金) 14時46分頃
(東) 常磐線 浜吉田〜山下 南泥沼踏切付近 (地図)
無し
 東日本大震災の被災車。札幌貨物ターミナル発常磐線経由隅田川貨物ターミナル行きの高速貨物92レとして機関車+コンテナ貨車20両で運用中に、地震に遭遇し緊急停止。その後津波に押し流され貨車はすべて脱線転覆、重い機関車は流されなかったものの海水に浸かった。機関士は第1波を機関車内でやり過ごし、続いて襲った巨大な第2波の前に近くの民家に避難し無事。
 一時は保存も検討されたため、コキや周囲の残骸が撤去された後も機関車だけ佇んでいたが、結局同年11月に現地解体された。
画像 画像
156 ED76-513
不明
国(北) 不明
不明
 踏切事故で炎上した。
 昭和60年2月17日に岩見沢第2機関区で廃車。
画像(衝撃画像注意)
157 ED79-56
2000年(平成12年)頃
(北) 五稜郭機関区内 (地図)
不明
 DD51-1051に追突される事故に遭遇。ED75の2号機から採用されているフレームレス構造が仇となり台枠が歪んだ。
 事故後車籍が抜かれてもしばらくの間は部品取り車として苗穂工場に留置されていた。民営化後の平成元年に製造された機関車だったが、平成12年3月24日付けで廃車となり、実働11年程度だった。
158 EF81-70
不明
不明
-
 全般検査明けの試運転で故障、緩解不能となり、車輪も制輪子も焼き付いていた。
 JR東日本所属で長岡に配置。修理不能での廃車だったが、名目上は平成4年度に「余剰に伴う部品取り」として、EF81で最初に廃車された。
159 EF81-90
不明
国(東) 東北本線 久喜〜栗橋
不明
 ダンプカーと衝突し、衝撃で田んぼへ転落。現場に大型クレーンが入れなかったため車体を3つに切断して撤去、後に車体を代替新造。
 踏切事故からは復旧したものの、機関区内での追突事故や火災事故、寝台特急牽引用にリニューアルなどを経て、新造時の部品がひとつも残っていない稀有な機関車となった。JR東日本に継承後、平成20年に廃車されるまで活躍した。
160 EF81-407
2010年(平成22年)7月12日(月) 19時20分頃
(九) 鳥栖貨物ターミナル駅構内 (地図)
無し
 鳥栖貨物ターミナル発の貨物列車4094レとして運用する前、停車中の電気機関車から煙が上げているのを作業員が発見。119番し消火活動したものの、1時間半にわたり炎上して制御機器等機器室を中心に焼損した。車体はすすで真っ黒になり、車両中央部は骨組みを残して焼失。機関車内は無人だったため人的被害は無く、貨車や積荷も無事。出火原因は現在調査中だが絶縁不良が原因?
 EF81-407はEF81-42からの改造車。修理せず同年8月19日に解体。
画像(衝撃画像注意)
161 EF200-1
2008年(平成20年)10月?
不明(中京圏)
不明
 火災事故に被災。平成20年11月2日に8865レの次位無動力回送で広島機関区に入場したが、修理すること無く部品取り車となった。
 EF200はメーカーの日立製作所が電気機関車事業から撤退したため部品の確保が困難となり、状態不良車は修理せず置き換える方針となっている。EF200-1も平成23年9月頃に除籍、平成25年1月中旬ごろ解体された。


ディーゼル機関車


162 DE10-1137
2000年(平成12年)4月
(東) 東京貨物ターミナル駅構内 (地図)
不明
 入換中、操車担当と信号担当がよく確認しなかった事と運転士の速度超過が重なり、留置していたコキ50000と激突大破した。
163 DE10-1167
1979年(昭和54年)4月17日(火) 10時12分頃
国(西) 和歌山線 志都美〜畠田 畠田踏切
乗客15人、乗員3人、ダンプカー運転手の19人が負傷、内4人が重傷
 乗客約70人を乗せた和歌山発王寺行きの普通客車列車として機関車+客車6両で運用中、踏切でダンプカーと衝突。機関車は沿線の空き地に線路と直角に転落し横転、続く客車3両も脱線した。
この事故の約2時間前に、事故現場から約2キロメートル南側の沿線民家で火災が起き、和歌山線の沿線通信ケーブルが焼損したために、踏切の遮断機・警音器が正常に動作したなかったらしい。和歌山線の列車は指導員が同乗して運行する「指導運転方式」を行っていた。
 DE10-1167は昭和47年3月3日に汽車会社で新造、昭和54年7月11日で経年7年で廃車。
画像
164 DE10-1744、DD51-682、DD51-683、DD51-684、DD51-1079、DD51-1103、DD51-1144、DD51-1169
1976年(昭和51年)4月13日(火) 23時45分頃
国(北) 追分機関区内 (地図)
不明
 電気溶接工事の火花がくすぐり火災が発生、木造の扇型機関車庫が中に留置されていた蒸気機関車5機とディーゼル機関車8両が全焼した。ディーゼル機関車は9両留置されていたがDD51-1166のみ無事だった。
 ディーゼル機関車は蒸気機関車全廃に備えて新製投入されたばかりで、特にDD51-1169は新造6ヶ月、DE10-1744は新造後実働期間9ヶ月で廃車。同年3月2日に国鉄の蒸気機関車が全廃された直後で、保存予定だったSLもD51 241、D51 465、D51 603、D51 1083、79602が焼失した。
165 DE10-1190
1976年(昭和51年)
国(九) 鹿児島本線 川尻駅構内
不明
 運転操作ミスによりオハネフ25-18に衝突した。
 DE10-1190は昭和48年1月18日付けで川崎重工で新造されたが、事故により昭和51年2月19日で3年で廃車。オハネフ25-18も共に廃車となった。
166 DE10-1199、DE10-3503
2011年(平成23年)3月11日(金) 14時46分頃
(東) 仙石線 石巻港駅構内 (地図)
-
 東日本大震災の被災車。津波の直撃を受け大破・水没した。
 DE10-3503はDE15-1517として落成、DE15-2567に改造された後、平成21年にJR東日本からJR貨物に売却された車両。DE10-1199は同年6月8日に、DE10-3503は同年6月末に現地解体。
画像(DE10-1199) 画像(DE10-3503)
167 DF50-10
1964年(昭和39年)6月25日(木) 16時28分頃
国(海) 紀勢本線 大曽根浦〜九鬼 大二行野トンネル付近 (地図)
機関士が重傷
 多気発串本行きの普通列車135レとして運用中、トンネルを出た直後で発生していた土砂崩れに乗りあげ、機関車が崖下に約30メートル転落し炎上した。
 昭和33年10月30日新造で、新造5年半程度でDF50初の廃車になった。
画像
168 DF50-39
1969年(昭和44年)1月24日(金) 0時50分頃
国(西) 紀勢本線 周参見〜紀伊日置
機関士2人が軽傷
 名古屋発天王寺行きのディーゼル機関車+客車7両の普通列車921レとして乗客89人を乗せて運用中、紀伊日置駅から南に約150メートルのカーブ付近で機関車が脱線。半回転して約7メートル下の水田に屋根から転落した。客車は機関車との連結が外れたために線路上でエアーが掛り停止した。この時の制動はほとんど衝撃がなく、停車したことに気づかない乗客もいたほどだと言う。原因は半径200メートルで制限速度50キロメートルのカーブに速度超過のまま突入したため。この際機関車だけが浮き上がり、転落したらしい。
 DF50-39は昭和34年4月21日付で新三菱で落成、昭和44年9月24日付けで経年10年で廃車。
画像
169 DF50-45
1972年(昭和47年)7月5日(水) 6時45分頃
国(四) 土讃本線(現:土讃線) 繁藤駅構内 (地図)
列車の乗客と地元住民、救助隊を含めて死者60人
 繁藤災害の被災車。高松発高知行きの普通列車(DF50+客車3両)として運用、繁藤駅前の追廻山が300メートルにわたり崩れたため繁藤駅に抑止されているところに高さ約150m、幅約80m、土砂量約10万立方メートルの大規模な土砂崩れが発生。機関車と客車2両が消防団員や駅、民家12件もろとも押し流され列車は穴内川に転落。乗客は2名のみ救出された。
 この事故の前に1人が生き埋め(→死亡)になる土砂崩れが起こり、救助活動を行っていた。この災害では消防団員が土砂崩れを予測出来たかどうか、自然災害での行政の責任を問う全国初の裁判が行われた。高知地裁では人災、高松高裁では天災と判決され、平成3年に最高裁で和解となった。
 機関車は2つに切断の上一部撤去されたが、当時の技術では回収できなかった車両の一部部品は機関士や乗客の遺体と穴内川に埋められた。車両は書類上「廃棄」となっている。
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170 DF50-569
1978年(昭和53年)3月22日(水) 5時10分頃
国(四) 予讃本線(現:予讃線) 高瀬〜比地大間 前田踏切 (地図)
機関士が軽傷、機関助士が重傷
 高松発松山行き下り普通列車121レとして運用中、踏切で前に出過ぎていたクレーン車と衝突。アームが機関車の助士席側に直撃して大破した。
 機関車は同年6月5日付けで廃車。
171 DD51-620、DD51-693
1981年(昭和56年)3月16日(月) 18時45分頃
国(東) 成田線 滑河〜下総神崎
無し
 鹿島港発成田空港土屋燃料基地行きのジェット燃料輸送列車5570レとしてディーゼル機関車2両+タンク車18両の20両編成で運用中、滑河〜下総神崎の線路脇左側で発煙筒が焚かれているのを機関士が発見、急停車した。そこへ覆面の男数人がハンマーで機関車の窓を破り乱入、運転席を破壊して放火した。機関車は2両とも炎上、約20メートルの火柱が上がった。消火活動のおかげで機関車2両の運転席付近と、周囲の草むら150平方メートルを焼いただけで30分後に鎮火し、約9000キロリットルのジェット燃料に被害はなかった。機関士2人も脱出して無事。事件直前に男5人の乗った不審な乗用車(三菱・ギャラン)が停車しており、事件後に居なくなっていたという近隣住人の証言がある。燃料輸送列車を狙った過激派ゲリラ(及びゲリラを模した愉快犯)による襲撃事件は、昭和54年10月10日にも同じ滑河〜下総神崎発生していた。
画像 画像(衝撃画像注意)
172 DD51-717
1982年(昭和57年)3月15日(月) 2時16分頃
国(海) 関西本線 名古屋駅構内 (地図)
機関士と乗客14人が負傷
 寝台特急機関車衝突事故の被災車。名古屋駅10番のりばで東京発紀伊勝浦行きのスハネフ14-102以下6両編成の寝台特急「紀伊」と連結しようとしたが、時速約20kmで衝突、客車3両が脱線した。原因は機関士が飲酒したことによる居眠り運転。この頃国鉄は職員のたるみが原因の事故を多発しており世間からモラルが問われていた。機関士は業務上過失致傷の疑いで逮捕された。
 スハネフ14-102も機関車と共に廃車となった。
画像(衝撃画像注意)
173 DD51-1078
2005年(平成17年)1月15日() 10時50分頃
(北) 北見駅構内
無し
 北旭発北見行の貨物列車として機関車+貨車10両での運用を終え、下り入換線で入換中に機関車が半分築堤から転落した。
 DD51-1078は平成19年3月30日付で鷲別機関区で廃車。函館運輸区構内で気動車(キハ40-1795)に衝突する事故に遭ったDD51-1006へボンネットが転用された。
174 DF200-56
2012年(平成24年)2月16日(木) 20時51分頃
(北) 石勝線 東追分駅構内
無し
 釧路貨物駅発札幌貨物ターミナル駅行き上り高速貨物列車2092レとしてディーゼル機関車+コンテナ貨車15両の16両編成で運用中、JR北海道の特急列車と離合するために東追分駅に停車しようとしたが、ブレーキが効かず安全側線に突入。車止めを突破して機関車と貨車4両が脱線、スノーシェルターに衝突した。原因は走行中に貨車のブレーキ装置に雪が固着してブレーキが効かなかったため。気温は氷点下を下回っていた。
 DF200-56は現地での修理が困難なため、現地解体。ただ苗穂で比較的原型を保った状態で目撃されている。
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参考
http://yomi.mobi/read.cgi/hobby9/hobby9_rail_1171717637/
http://bubble.2ch.net/train/kako/1053/10536/1053605039.html
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http://piza.2ch.net/train/kako/975/975492498.html
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http://logsoku.com/thread/bubble.2ch.net/train/1053605039/
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http://www.logsoku.com/r/rail/1098369790/
http://mimizun.com/log/2ch/rail/1106058861/
http://www.logsoku.com/r/rail/1222276309/
http://toro.2ch.net/test/read.cgi/rail/1387170052/
http://i-ikioi.com/th/train/1259481647/
他、各種ホームページ・各種文献等


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